13, 御前会議の夜


 深夜、突然の来客に使用人たちが廊下を歩き回る気配がやっと鎮まった。
 ウルリーケは物音を立てないように闇の中で目を凝らしながら、寝巻きの上に冬物の厚いガウンを羽織った。
 「お休みになっているおじいさまを起こしてまでお話をするなんて、ギュンター叔父さましかないわ」
 寝台の脇に置いた革の鞄にけつまずいた。
 「いけない、忘れていたわ。スケート靴を入れて、寝る前に自分でここに置いたのよね」
 よろめいてサイドテーブルに手をつく。 
 「急にケティが電話をかけてくるからなにかと思ったら、スケートに行きましょうだもの。 そりゃ、あの湖はとてもよいスケート場だけれど」
 この屋敷から程遠くない湖もすでに分厚い氷に被われている。 ウルリーケは氷上で娘たちがはしゃぐ姿を思い描きながら窓に目をやった。
 「この吹雪では、明日のスケートは無理かしら」

 夜更けの冷え込みに身震いしながらガウンの上からカシミアのストールを巻きつける。
 「さあ、それよりギュンター叔父さまよ。 きっと大事件があったにちがいないわ! おじいさまが関わっている英国に関係があることかもしれない」
 胸騒ぎよ鎮まれ鎮まれと言い聞かせながら、扉を薄く開けて廊下をうかがう。 暗がりに自分の吐く息がぼんやり白く浮かぶ。 足音を立てないように廊下に忍び出て、壁伝いにメーリンク子爵の書斎に向かった。 磨き上げられた廊下が氷のようだ。 祖父の書斎にたどり着くまでに、耳から頬にかけて冷気が染み付いてきて頭からストールをかぶり直した。

 祖父と叔父が話し込む時は、人払いをするから使用人に姿を見られる心配はない。 ウルリーケは息をひそめて鉄のように冷え冷えした扉と壁の隙間に耳を押し付けて、なんとか話を聞き取ろうとする。
 「スペンサー伯爵がスパイ容疑で失脚したらしいと情報が入りました」
 「あの国粋主義者がスパイ? いや、それよりドイツ方面のスパイ事件となれば我々も関与の疑いをかけられる」
 ドイツ皇帝の御前会議が終わってその足で駆けつけた義理の息子と夜着のままのメーリンク子爵が、炎の片隅にたきつけの小枝が残る暖炉の前に椅子を寄せている。
 「それはご安心下さい。なんでもインドの反英国過激派と取引があったようです」
 「では、われわれとは無関係だな。それにしてもインド過激派とは…。 魔が差したのか、うまい話に乗せられたのか」
 メーリンク子爵は、眉間にしわを寄せ合点が行かぬ様子で義息の報告を待った。
 「カーゾン卿暗殺計画に関わったようです。 計画段階で発覚したので表沙汰にはなっていませんが、過激派はカーゾン卿の行動予定を克明に調べ上げていたそうです。 並みの協力者ではあれだけの情報提供はできないだろうと」
 「その協力者がスペンサー伯爵かね…」
鼻筋が通った端正な顔立ちが、表情の険しさをより深刻にみせる。

 昨年1907年末にインド国民会議が分裂して以来、地下活動に走った過激派数名が、潜伏中のロンドンで1月半ばに逮捕された。 彼らの標的は1899年から1905年までインド総督を務めていたカーゾン卿だった。(1904年に一時休職)
 歴代のインド総督は、繰り返し飢饉や黒死病(ペスト)に襲われるインド国民の塗炭の苦しみには極めて無頓着だった。 大飢饉で何十万人が餓死に直面しても、その救済費用の必要性など口の端にものぼらない。 そして、死屍累々たる弊土を眺めながら、ヴィクトリア女王がインド女皇であると宣言する儀式のために、インド国民から取り立てた税金を湯水のように使うなどいともたやすいことだった。
 40歳の誕生日を目前にしてインド総督に就任したカーゾン卿は、エネルギッシュに歴代総督の伝統を受け継ぎ推し進めた。 反英運動を食い止めるためのベンガル州の強制分割、新聞記事の内容にまでおよぶ言論統制、その辣腕ぶりは語り尽くせない。 ―― 彼にとっては、民主主義を生んだ母国・英国に誇りを持つことと、インドにおける自分の施策が非民主的であることとは、なんら矛盾するものではなかった。

 「逮捕された過激派のカーゾン卿への憎悪は生半(なまなか)なものでなく、もう、なんというか、手段選ばずの殺意をみなぎらせていたらしいですよ」
 「しかしな、ちと腑に落ちん。 カーゾン卿は総督時代、ずいぶんとスペンサー伯爵に便宜を図っていたと聞いておる。 伯爵は『インドは金になる』とすっかり味をしめていたが、カーゾン卿の目こぼしがあったればこそのもうけ話だと本人も認めていた」
 メーリンク子爵は、「カーゾン卿は、イートン高校、オクスフォード大学と私の後輩で、とくに高校時代は歴代に名を残す好成績だった」と、自分の息子を自慢するように目を細め、跳ね上げた口ひげをなでたスペンサー伯爵を思い出す。

 失脚ですって? それではスペンサー伯爵がベルリンへは来ることは、もう、ないというの?  2月には必ずインドの彼を連れて来てくれると言っていたのに。 だから、私はおとなしく時間稼ぎに専念していたのよ!  私は二度とルディに会えないのかしら…、どうしよう…、どうすれば会える?
 明かりのない廊下で、ウルリーケの肩も腕(かいな)も押し付けた扉の冷たさにすっかり体温を失っている。 足先の感覚などとうにない。 だが、彼女は、今まで信じていた大地が崩れる衝撃に、自分の手足のことなどすっかり忘れていた。

 「どうやら、外交畑で頭角を現わしそうなカーゾン卿が、スペンサー伯爵には目障りになったようです。 スペンサー伯爵の子息も卿と同年代で、父・伯爵の跡を継いで外交族での政界入りを志しています。 ただ、親よりかなり小粒というのが、もっぱらの評価です」
 「ふむ、政敵の追い落としなら、充分に考えられる。 まあ、伯爵の進退などはかまわんが、英国とのパイプがなくなるのは惜しい」
 「英国側も、これまでのお義父さんを通じての我がドイツ帝国との交渉は無駄にしたくないと考えているようです」
 「そうか、それは上々だ。どちらにしろ2月のスペンサー伯爵の来訪はないわけだな? 」
 「はい」
 「他の者が来るにしろ交渉が遅れる分、こちらも念入りに準備をしておかなければならんだろうて。 交渉相手が変わるのに乗じて、先手を打たなければ意味がない」
 「ええ、それで、お義父さんのお力をお借りしたくて夜中に駆けつけたわけです」
 「この者たちに急いで連絡をとって、情報を集めなさい。かならず舞台裏の事情があるはずだ。 それを利用しない手はない」
 メーリンク子爵がメモ書きを手渡す。 彼の記憶だけに刻まれている極秘の情報網だ。

 死刑宣告にも等しい祖父の言葉でウルリーケは扉から身を離した。 その後、どうやって自分の寝台に戻ったのか覚えていない。
 どうして、去年、ルディに英国での連絡先を聞いておかなかったのかと自分の手落ちが悔しい。 せめて大学の名前だけでもわかっていれば…。 誰に聞くことも出来ないとなれば、自分でロンドンに行って調べるしかない。
 寝台に残ったぬくもりは、冷え切った身体には無力だ。 歯の根もあわずに震えが続く。
 ひとりで当てもないロンドンに彼を探しに行く? それで、もし、彼に会えなかったら?  いえ、彼を探し当てたところで私を受け入れてくれる保証はない。 ロンドンにたどり着けても着けなくても、連れ戻されれば婚約破棄は確実だわ。 ―― 勘当同然で修道院入りかしら。
 では、あきらめて、おとなしくおじいさまの決めた相手と結婚する? 
 今宵、ウルリーケの元へ眠りは絶望的に訪れない。 降りしきる細かい雪片のかすかな照り返しが、寝台の幕の蔭に置いた大きな旅行鞄にまで届いている。

 両肘を膝について義父の方に身を乗り出しスパイ事件の報告していたギュンターは、英国の話が終わると背もたれに寄り掛かるように座りなおした。
 「おや、それはアグネスからですか? 」
 脇の丸い小卓に置かれた分厚い国際郵便に目を留めた。
 「義兄(あに)夫婦から聞きましたけど、大変なことになりましたね」
 義息の言葉にメーリンク子爵は、速達で届いた封筒を取り上げた。
 「ただ、義兄たちは離婚の時期がはっきりしないうちは、ウルリーケには事を伏せておくつもりだとか。 やっと整った婚約をひっくり返されたら大変だと、義兄がぼやいていました」
 「アグネスは、おまえたち以上に外交官の資質があるやもしれん。 今までは全てひとりで飲み込んでおったようだが、今回は事情が変わったと判断して、パリでの4年近くの出来事の一部始終を書き送ってきた。
 それが、実に要領よくまとまった報告文になっている。 しかも、恨みつらみの思いなど行間にも滲ませず、淡々と事実を克明に書いてある。
 当事者として話を聞いた直後に、これだけ感情を排した文章を書くなど、男だって容易なことじゃない」
 「なんでも、S男爵は離婚する気はない。 もし、どうしてもというなら裁判沙汰も辞さないと息巻いているそうですね」
 「馬鹿馬鹿しい!」
 言下に吐き捨てる。
 「“あの事件”がその場で警察沙汰になったのであればS男爵自身は無関係で通せただろうが、 ―― 世間的には非難を浴びたにせよ ――、揉み消した今となっては犯人隠匿(いんとく)罪で、彼も立派な犯罪者だ。 もちろん、揉み消し工作だって犯罪行為そのものだ」
 「なるほど、裁判沙汰は自分の罪を白日にさらすようなものですね」
 「第一、アグネスも、メーリンク家も奴に訴えられるような負い目は何一つない。 裁判などという言葉を持ち出すだけで、あやつの非常識の証明だ」
 「では、離婚ですか? 」
 「そう、改悛(かいしゅん)の情もなく改善の見込みのない者にこれ以上、関わるのは無意味だ。 もちろん、こちらが慰謝料を請求する側だ」
 「義姉(あね)は、慰謝料よりも一日も早くアグネスを呼び戻したいと言っていました。 小間使いひとり連れずに嫁いでいるから、こんな大変なことになっても相談相手も、話し相手もいなくて心細いだろうと。 義姉は、すぐにもアグネスのところに飛んで行きたい様子でしたね」
 「確かに生来、聡明な孫娘だが、この4年間、置かれた環境で強くなったのやも知れぬ」



 あの日、いきり立って乗り込んできたS男爵は、最初こそ居丈高な話し振りだったが、結局は一方的な話を終えると逃げるようにそそくさと引き上げた。 一時間にも満たないあっけない出来事だった。
 しかしながら、それから一週間、アグネスはヴァイオリンを弾かなかった。 最初の2日は急ぎの手紙を書くと言って食事時以外は部屋にこもりきりだったが、そのあとも楽器を手にする気分ではなかったようだ。
 「インクって落ちないわね。 このシミが取れる頃には、また、弾きたくなるかしら」
 祖父宛の報告書を、時間との勝負とばかりに気力を振り絞って書き上げてみると指先がインクで染まっていた。 丹念に洗っても指先のうす青いシミが消えない。 アグネスは日常生活でも頻繁にペンを持つが、今まで指先にインクのシミなど作ったことがない。 ―― 彼女が無理をしているのは誰の目にも明らかだった。

 執事も家政婦も、S男爵の持ち込んだ話が不快なだけでなく、一筋縄ですまない厄介な事件の報告だったと察している。 あるいは、ポワティエの城の使用人からの情報で、具体的な事件内容まで知っているのかもしれない。
 「摩利さまがいてくださって良かったわ。私たちでは奥様のお話し相手になれませんからね」
 「ああ、奥様のことだから、『大丈夫よ、心配してくれてありがとう』って微笑むだけだろうな。 だからと言って、おひとりにしておいて万一の間違いでもあったら、メーリンクの御当主にも、P侯爵のご隠居にも顔向けできない。 いや、その前に、こんなに良くしてくださる奥様に間違いなんかあっては、館の奉公人たち皆がたまらないからなあ」
 「そうですとも。摩利さまが奥様に付いていてくれれば安心ですよ。 摩利さまは大人顔負けにしっかりしていらっしゃるし、奥様とは実の親子か姉弟のように仲がよろしいから」
 「しかし、摩利さまが奥様につきっきりでいて下さることは、外には漏らしてはいけないよ。 世間では他人の不幸をあることないこと面白く詮索する。 根も葉もない噂の種にされては、お二人にとって不名誉この上ない」
 「ええ、ええ、わかっていますよ。メイドだって心得ています。 口止めなどしなくても、下働きの者まで、この館には外で奥様や摩利さまの噂を吹聴するような心無しはいませんよ」

 摩利がアグネスから事情を聞いたのは、S男爵来訪の翌日、深夜、アグネスがメーリンク子爵への手紙を書き終えた直後だった。

(2001.6.29up)



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