15, 雨の歌


 ベルリンは風もなくスケート日和だった。 ウルリーケは、汗ばむほどに友だちとスケートに興じ、他愛ないやりとりでころころと笑い転げた。 逃れられない現実として迫ってくる結婚や、2度と会えないかも知れないインドの彼への憂いをすっかり忘れて、声をあげて笑うのは久しぶりだった。
 ところが、帰途は一転して暗澹たる思いに取り付かれた。 友人のひとりからアグネスの離婚話を聞いたからだ。
 ―― おかあさまとケティのおかあさまは幼馴染で、今でも親しくお付き合いしているわ。 だからと言って、実の妹である私が何も知らされていないなんて、どういうこと?
 おとうさまやおかあさまが教えてくれないなら、おばあさまにお尋ねするまでよ。 アグネスがベルリンに戻ったら、ルディに会いに行く時に「パリに遊びに行く」という口実が使えなくなってしまうもの!
 いつの間にか2月、カウアー男爵とおじいさまが婚約披露の夜会の打ち合わせを始めているし、もう時間もないわ。

 事のついでにつむじ風娘はロンドン行きの決意まで固めて、祖母から本当の所を聞き出そうと勢い込んで玄関に足を踏み入れた。
 が、屋敷の中、いたるところ使用人が右往左往し、メーリンク子爵夫人もなにやら家政婦に指図をしている。 とてもではないが、ウルリーケの話し相手をする暇はなさそうだ。
 「今朝、ウルリーケ様がお出かけになったのと入れ違いに、ギュンター様がお見えになったんですよ。 なんでも、明日からスペンサー伯爵がこちらに逗留することをお知らせにいらっしゃったとかで、皆、その準備に追われているんですわ」
 小間使いが無邪気な笑顔でウルリーケを出迎え、外套を受け取った。 彼女は自分の言葉がウルリーケにどれほどの衝撃を与えたかなど、知る由もない。
 「スペンサー伯爵が? そんな、あり得ないことを…」
 ウルリーケはうっかりと口を滑らしかけた自分を叱責する。 先月の吹雪の深夜、祖父と叔父の密談を盗み聞いたことを白状するようなものだ。
 ―― おじいさまたちの事情はわからないけれど、とにかく、これは天が与えてくれた万に一つの、そして、私には最後のチャンスだわ。 たとえルディが一緒に来なくても、彼の通っている大学や住所をスペンサー伯爵から聞きだせるもの。
 さあ、今日中にでも旅行鞄の用意を整えなければ。

 翌日、小間使いの言葉どおりメーリンク邸にスペンサー伯爵が到着し、いつものようにメーリンク子爵と二人きりで遊戯室のチェスボードに向かい始めた。
 従者の中にインドの彼の姿はなかった。 が、ウルリーケは落胆する暇なく密かに荷造りに精を出しながら、元大臣たちが遊戯室から出て雑談に移るのを今や遅しと待ち構えている。



 2月の初めには、S男爵家とP侯爵家にメーリンク家から正式に離婚の申し入れがあった。
 それからというもの、どうやって時間をやり繰りしているのか、ボーフォール公はパリ市内から近いとは言えないアグネスの館に何度となく足を運んでいる。
 彼女が去った後、この館は以前のとおりボーフォール家が管理することで話が落ち着いたので、その打ち合わせのためだ。 だが、その打ち合わせだけであれば、代理の者を差し向ければ用が足りるはずだ。
 「お忙しいボーフォール公直々に、こんなに何度もご足労をおかけして申し訳ありませんわ」
 「乗りかかった船ですよ。 縁あって最初から関わってここまで来たのですから、最後もお見送りしないと私も落ち着かない。
 それで、あなたはいつベルリンへ?」
 「3月には戻るようにと祖父に言われています。 S男爵家との話し合いが終わるまでには時間がかかるだろうからそれは専門家に任せて、身の回りのものだけ持って、さっさと戻って来るようにと」
 「あと、一ヶ月というところですな」
 「ええ、急なことなので、使用人たちの身の振り方が気になりますの。 どうか、よろしくお願いします」
 「ご心配なく。P侯爵とよく相談していますから。決して悪いようにはしませんよ。
 ところで、立ち入ったことをお尋ねするようだが、あなた自身のこれからは?」
 「それは、祖父次第ですわ」
 ゆったりと微笑みながら答える。
 「私はS男爵夫人でなければ、メーリンク子爵の孫ですから」
 投げりやりな気配も恨めしい気分も無縁、恵まれた豊かな世界に生きているお姫様のやわらかい声音だ。 しかし、他人事のような冷徹な口調に、ボーフォール公は彼女の芯の強さを感じ取る。
 「……おそらくしばらくしたら、どこかに再嫁(さいか)すると思います。 次の嫁ぎ先はドイツか、せいぜいオーストリアでしょうか」

 アグネスのにこやかでソツがない回答に、ボーフォール公はいかにも詮索めいた愚問を発した自分に鼻白(はなじろ)んだ。 半ば無意識のうちに自分への不快感を紛らわせようと、葉巻に火をつける。
 「おや、摩利が?」
 フルサイズのヴァイオリンになって最初にとりくんだ曲、ブラームスのソナタ一番から三楽章をさらっている。
 「居間で弾いていますね。今日はホールに暖房を入れていないので」
 「アレグロとはいっても、いや、これはテンポの問題じゃないな。 指の慣れた曲は逆にその時の気分がはっきり出るものだが…」
 ボーフォール公の不満気なつぶやきに、アグネスの顔が曇る。
 「私には、どうもバランスを崩しているように聞こえるが、先生としてはいかがですか?」
 「ええ、確かに。 ただ技術的な問題ではないので、教えるとか注意するとかできなくて…」
 いつものアグネスからは考えられないほど歯切れの悪い物言いだった。 その不自然な言い回しがボーフォール公の勘所(かんどころ)にはまり込み、彼女ができれば避けたいと思っている話題だと察しつつ、そ知らぬ顔で核心に踏み込む。
 「ここのところ、こんな調子ですかな? 」
 「あの翌日から、」
 「あの翌日? 」
 「いえ、先月末から、私の取り込みが続いてレッスンの時間が取れないので…」
 テーブルを挟んでやや斜(なな)めに座を取っているふたりの視線がかち合い、アグネスの方がつとはずす。
 ―― なるほど、どうやらこの従姉弟たちのただならぬ関係は、冗談ですまなくなったらしい。 だが、摩利の乱れ方はあまり機嫌の良いものではない。なにやら裏事情がありそうだ。
 アグネスの困惑をそのまま空間に投げ出したような、摩利の不安定な旋律が続いている。

 「思音は来週半ばには帰国できるようです。 昨日、秘書から連絡が入りましてね。 予定より10日も遅れているし、こちらも館の片付けが始まって落ち着かないようであれば、摩利には私の屋敷でもオフィスでも移ってもらってかまわないのだが」
 「それは摩利に聞いてみますわ。もちろん、私は摩利がいてくれるのがうれしいには変わりありませんが。
 そう、ただ、祖母が…」
 「メーリンク子爵夫人が? 」
 「ええ、私と一緒に摩利もベルリンにつれて来るようにと言い出して。 メーリンクの孫がフランス語は話せてもドイツ語が話せないなんて我慢ならないと。 それもこれも、思音があまりにいい加減な父親だからだなんて」
 「しかし、メーリンク子爵は摩利を孫と認めていないのでしょう」
 「それを私も言ったのですけれど、ベルリンの寄宿制の学校に入れて、学校が休みの間はギュンター叔父の屋敷に住まわせると申しますの」
 「摩利が思音の元を離れるとは思えないし、ドイツ語を身につけるのであれば家庭教師で充分なはずだが…」
 と言いながら、アグネスを追って摩利がベルリンに移る可能性も出てきたなと、公は葉巻の煙を吐くふりをしてため息をごまかした。
 「そのことは、もう、摩利に話して?」
 「ええ、昨夜、祖母の意向だけは伝えました。
 それにつけても、思音の帰国が予定より10日も遅れていることを祖母が知ったら、なお一層、強硬に摩利を引き取ろうとしますわ、きっと」


 「こんにちは、いらしていたんですか」
 摩利が演奏の手を止めて、アグネスと談笑しながら居間に現われたボーフォール公に挨拶する。
 「思音の帰国が来週半ばに決まったよ。これは、もう変わらない」
 「わざわざ知らせてくださってありがとう、公」
 三人してそれぞれ気に入った椅子にくつろぎ、互いに心に抱える緊張感を見て見ないふりをして、和(なご)やかな語らいの一時(ひととき)になった。
 「4月に予定されていたフレッシュのサロンコンサートを、私は楽しみにしていたのだが。 残念ですな。 この館のホールであれだけ充実した演奏を聴く機会は、もうないでしょう」
 「その代わりともいえませんが、お別れに演奏会やりましょうか。 皆さん忙しいから準備に時間はかけられないけれど、それぞれが得意な曲を一曲ずつ持ち寄って」
 「それなら、アグネス、あなたの独奏会で充分だと私は思うが」
 「あ、でも、ぼくは公のコントラバスも聴きたい。 去年の持ち寄りのコンサートで、公が参加したシューベルトの鱒(マス)がすごく良かったから」
 「私もぜひ聞きたいわ、公のコントラバス。本当に玄人はだしですもの。
 コントラバスはとにかく扱いが難しくて、ボーフォール公ほど正確に音程がとれる人はめったにいませんわ。 しかも、公の音色はとても艶(つや)やかで、なんと言うのかしら、そうねえ、色っぽいとでもいうのかしら…。
 公はヴァイオリンの腕も素晴らしいのに、ついコントラバスをお願いしてしまって、ちょっと申し訳ないのですけれど」
 「私は日頃、楽器をいじる時間などないから、人前で弾けるのは物珍しさだけですよ。
 独奏会と言えば、アグネス、せっかく私も時間を割いてここまで来ているのだから、久しぶりにあなたの十八番(おはこ)を聴かせてもらえると嬉しいのだが」
 「十八番(おはこ)?」
 「もちろんパガニーニの曲ですよ。今日はカプリチオから1、2曲どうですかな」
 「まあ、そんな、素人のお遊びを…。十八番だなんて恥ずかしいですわ」
 頬が赤くなったところを見ると、謙遜ではなく本当に恥ずかしいらしい。
 「いや、難曲中の難曲、パガニーニ作品をあなたのレベルで弾きこなせる人はそんなにいませんよ」
 「うん、目の前で見ていても不思議なんだ。 どうやったらあんなふうに、右手で弓の音をちゃんと出しながら、同時に左手のピチカートで旋律を歌えるのかなあ。 ぼくにはとっても真似できない」
 「どうしてできるのか、自分でも良くわからないのだけれど……。 なんとなく見よう見真似でやってみたら、そこそこにできてしまったのよ。
 じゃあ、ヴァイオリンを持ってきますわ。少しお待ちいただけます?」
 「ぼくのでよければ、ここにあるけれど」
 「ありがとう、摩利。でも、パガニーニを演(や)ると弓が無事ではすまないから、自分のを持ってくるわ。 いつも必ず二すじ三すじは、馬毛が切ってしまうのよ」
 アグネスは、一番の愛器グァルネリでボーフォール公に聴かせたくて居間を出た。

 閉められた扉の向こうで彼女の足音が遠ざかるのを確かめると、ボーフォール公は摩利に口を開く間を与えずに、けれども、ゆっくり冷たい口調で問い正す。
 「彼女を手に入れたのに、どうしてそんなにイライラしている?」
 感情を殺した直截(ちょくせつ)な言葉に挑発された摩利が、公の目を見据えた。
 「手に入れた? いいえ、手が届かないことが良くわかっただけです」
 公は、内心で予想通りの摩利の反発を楽しみながら、自嘲を匂わせる言い草の理由を探るべく無表情な声で鎌をかける。
 「彼女がベルリンに帰るからか? だったら、君もベルリンに行けばいいだろう。 実にうまい具合に、メーリンク子爵夫人が君を呼んでくれているじゃないか」
 「おれがベルリンに行ったところで…」
 ヴィルヘルムの名前を飲み込んで口ごもる摩利の手から、ボーフォール公が無言で楽器を受け取った。
 それまで摩利が弾いていたト短調のささやくような旋律を、ボーフォール公が頭からたどる。 アレグロ・モルト・モデラート(快速で、ただし極めて穏やかに)、小さな雨だれのような三連符が2つ、そして二分休符。 そこで最初のフレーズが終わる。公が摩利に楽器を返す。
 「レーゲンリート」
 「え?」
 「雨(レーゲン)の歌(リート)――さ。
 ブラームスはこの三楽章に彼の歌曲、“雨の歌”と同じ旋律を使っている。 摩利、君の雨はどんな雨かね?  潤いの慈雨か、後悔の涙雨か」
 摩利は、夏のペルチャッハ湖の水面をさざめかせた細かい雨を思い出した。 真夏の避暑地の肌寒い雨だった。
 それは摩利とアグネスの距離を縮めた雨でもあった。

 帰りの馬車の中でボーフォール公は雨の歌を口ずさんだ。
 ―― 義姉のような義母のような従姉とただならぬ関係になって、摩利は大人びたのか、戸惑っているのか。 両方の感情をもてあましてイラついている?  いや、まだそれ以外の感情がある。 しかも、アグネスの困惑ぶりを見ると、ふたりの間に感情的な齟齬(そご)もあるようだ。
 どちらにしても私はアグネスに先を越されたのは間違いない。 まあ、彼女なら許せると言う気分になるのが不思議だが。

 馬車はパリ市内に入ると橋を渡り、エッフェル塔を目指して進んでゆく。 塔の根方にオフィスを構えるボーフォール公にとっては、それは仕事の象徴にも等しい。 ふと我にかえれば、他人の情事の成り行きを思い巡らせている自分は疎ましいほど下卑た存在だ。
 ―― それでも、詮索をやめられないのは何ゆえか? なんと簡単なことだ。 私が彼らを他人と思っていないだけさ。

 同じ頃、ベルリンのメーリンク邸からウルリーケの姿が消えていた。

(2001.8.2 up)



(14) ヴィルヘルム / (16) ロンドンの紅茶

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