26, 梅雨入りの頃



 「メーリンク子爵夫人が、伯爵と若様にお会いしたいとおっしゃっています」
 執事の言葉に摩利と思音が顔を見合わせた。なるほど断る余地のない客だ。
 「アグネスの父上が、子爵夫人もパリに滞在中で午後から散歩のお供をすると言っていたから、こんなこともあろうかと思ってね」
 ふむと、ボーフォール公がうなずく。
 「P侯爵の手前もある。私も挨拶しておこう。良い機会だ」


 「おひさしぶりです、おばあさま」
 「摩利…」
 孫の姿を見るなり、メーリンク子爵夫人は長椅子から立ち上がって抱きかかえんばかりに頬を寄せた。
 「本当にどれだけぶりかしら。また背が伸びて。ああ、でも、目元も口元もますますマレーネに似てくるわ」
 去年会った時と同じ言葉を口にして、愛娘の忘れ形見の顔を覗き込んだ。感激に胸が詰まる。摩利に続いて客間の扉を開けた思音に、視線を向ける余裕もない。
 「これはメーリンク子爵夫人、お久しぶりです。お元気そうですね」
 ボーフォール公の声にメーリンク夫人があっと振り向いた。彼女は孫との再会に夢中になって、公が入ってきたことに気付かなかった。
 「ま、公爵。どうして…ここへ」
 ボーフォール公爵には、以前、私が仮病をつかってP侯爵の茶話会を欠席したことを知られているのだわ ――。そう思うせいか、メーリンク夫人は彼の前ではどうしても緊張する。
 「たまたま所用でビジネスパートナーの所へ立ち寄ったら、子爵夫人がお見えになったと聞きました。それで、ぜひご挨拶したいと」
 公が完璧に優雅な所作で手に接吻して、夫人が困惑する名前を口にする。
 「P侯爵も変わりなく元気です。どうもあの方は年々お若くなるようです」
 「あ、そ、それは、なによりです。主人が聞いたらとても喜びますわ。どうか、侯爵によろしくお伝えくださいまし」
 何食わぬ顔で「確かにお伝えします」と言う公に、メーリンク夫人は息を整えてなんとか笑顔を取繕った。そのはずみでやっと自分に視線を向けた夫人に、思音が挨拶する。
 「お義母さん、よくおいで下さいまし…」
 夫人は最後まで聞こうとせず、用意してきた言葉を権高く思音に突きつけた。
 「ええ、今日、私は摩利を迎えに参りましたの」
 彼女は、摩利がベルリンに留学したいと希望しているのに思音が強硬に反対していると決めてかかっている。
 ―― 何か月待っても摩利から返答がないのは、あの父親が邪魔立てしているからに違いないわ。アグネスやウルリーケがなんと言おうと、自分の目と耳で確かめなければ……。
 アグネスの父 ―― つまり彼女の義理の息子だが ―― がパリに出向くのは千載一遇の好機だった。かたくなな夫・メーリンク子爵の不機嫌をものともせず、神経痛をおして、半ば無理やり同行した。
 「大事な一人娘の忘れ形見の教育を、こんな無責任な父親に任せておけません。私たちがマレーネにしてやれなかったことを、せめて摩利にと思いましてね」
 ボーフォール公の存在に緊張しながらも、彼女も腹に据えかねた思いをぶちまける。
 「摩利、おばあさまと一緒にベルリンへ行くのですよ」
 ―― おれが返事を一日延ばしにして半年近くなる。おばあさまががしびれを切らすのも当然だ。そのせいで、とうさまが悪く思われてしまった。
 「誰に何の気兼ねも要りません」
 強い口調で重ねて摩利に同意を促した。
 「そうでしょう? あなたのおかあさまの家に行くのですもの。さあ……、」


 即断を迫る祖母を前にして、摩利は父を一顧だにしない。思音は肘掛け椅子に深くかけて穏やかに黙っている。
 ―― この息子にしてこの父、いや、やはりこの父にしてこの息子か。
 ふたりに向けられたボーフォール公の微笑ましげな視線に、羨望が入り混じる。
 「摩利」
 背後からボーフォール公がゆったりと声をかけた。
 「私は、思音が無責任な父親だと思っていない」
 「ええ、公」
 振り向いた摩利もゆったりとした笑みを見せた。
 ―― ほう、微笑が大人びたな。これならアグネスも“おませ”と言わないだろう。いったい、何があったのかね? そう、こうやって君はいつも私を楽しませてくれるよ、摩利。
 「だが、もし、君がパリに留まるのであれば、私が責任を持って、つまり、ボーフォール公爵家の名前と名誉にかけて、欧州の最高水準の教育を受けさせることを約束する…、 常々君に言っていることだが。ついでに、そんなことも思い出してくれると、私としては嬉しいね」
 わかっていますと視線で応えた摩利に、公が少し眉を上げて満足を示す。
 「私の孫に格別のご好意を感謝しますわ」
 メーリンク夫人が苛立つ気分を、なんとか乙に澄ました言葉に押し込んだ。
 「でも、公、メーリンク家も決して一族の子供の教育を他人さまにお願いしなければならない事情はございませんの」
 思音がしみじみと言う。
 「摩利くんは幸せですね。こうしていろいろな方に親身になって考えてもらえる」
 メーリンク夫人が絶句した。
 ―― なんと他人事の言い草! どこまで無責任な父親なのかしら! 絶対に摩利をここに置いてはいけないわ!
 摩利は、露骨に不快な顔を見せた祖母に気付かぬように、含みのない笑顔で父の言葉に相槌を打った。
 「ええ、ぼくもそう思います、とうさま」 
 たまりかねたようにメーリンク夫人は立ち上がり、薄絹のハンカチを握り締め、震える声を懸命に押さえながら思音に言い渡した。
 「あの時、私たちがマレーネを屋敷の一室に閉じ込めるのは簡単でしたよ。けれども、それでも、最後はマレーネの希望を尊重したからこそ、異国の男と見も知らぬ東洋の果てに行かせもしました! 」
 数秒の沈黙の後、思音に背を向け摩利と向き合う。
 「摩利・コンラート・フォン・メーリンク、私の大事なマレーネの息子。さあ、あなたが進みたい道を選んでちょうだい。そう、あなたが決めたら誰もとめられないわ」
 摩利は祖母の頬に接吻した。
 「おばあさま、おっしゃるとおりです。ぼくはマレーネかあさまの子です」
 メーリンク夫人はほっとした表情で長椅子に座りなおした。摩利が微笑んだ。
 ―― マレーネの微笑(ほほえみ)そのままだわ…
 摩利を見上げて、ほおっと感嘆のため息をついた。
 「だから、ぼくは日本に帰ります。かあさまが待っているから。日本で眠るかあさまをひとりにしておけないでしょう? 
 安心してください、おばあさま。また、必ず会いにきます」


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 後年の思音の述懐 ――。
  あの時もあの子が自分で帰国したいと言ったのですよ 
  ドイツの母方の里の誘いもふりきって


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 1910年、そろそろ梅雨のはじまる頃だった。持堂院の桜豪寮あてに、手に手をとって中国大陸へ渡ったビバルディこと四季遥と雅子から、無事の到着を知らせる便りが届いた。全猛者連への感謝とふたりの幸せな新生活が綴られた手紙に、桜豪寮は喜びの声にわきかえった。
 「手紙って良いよな、摩利」
 「ああ、新吾」
 「おれ、手紙をもらうのも好きだが書くのも好きだ。摩利が欧州に行っていた間、会えないのは淋しかったけど手紙をたくさん書けたのはうれしかったぞ」
 「うん、おれも新吾から定期便が楽しみだった」
 「なにしろ、摩利は受験勉強に間に合うように帰ってくるとわかっていたから、安心していられたしな」
 真顔で言う新吾がまぶしくて、摩利は「ああ」とうなずくしかない。
 「新吾」
 どうしようかと一瞬、躊躇するがやはり尋ねてしまう。
 「一度だけ、定期便がこなかったな」
 「すまぬ。どうしたことか宛名を書き間違えてしまったのだ」
 少し照れた笑顔で、しかし、お日さまに陰がさすことはなく答える。
 「おれのところに戻ってきたのは2か月もたってからだったから、後の手紙にも特に説明も書かなかったのだ。…、心配かけたか? 」
 「いや」
 ―― 無条件の信頼。新吾、お前はずっといつでも。ここが、おれの永久に新吾に勝てないところなんだ。定期便の“欠航”で、それまでの自分の不精を後悔しながら悶々とした挙げ句、日本に戻ったなんておまえには信じられないだろう。
 「そう言えば、おじさまはお元気か? 」
 今日は摩利にも国際郵便が届いた。今一度、父からの手紙を広げる。上質の洋紙にフランス語の筆記体を思わせる思音の草書が横書きで並んでいる。
 「『摩利くんも新吾くんも持堂院での生活を満喫していると思います。ふたりとも、四月に会った時からさらに背が伸びたことでしょう』って」
 「おじさまは欧州にいてもおれたちのことがわかるのだな」
 「うん、それと、とうさまの大事な仕事上の友人、ギヨーム・ド・ボーフォール公爵という方のお嬢さんが結婚したって」
 「それも良い知らせだ。おじさまもお喜びだろう」
 見ず知らずの他人の幸せを、新吾はわがことのように喜ぶ。摩利が返事を書こうと便箋に向かう。新吾も自分の机でドイツ語の教科書を広げた。
 「摩利、欧州の人の名前は面白いのだな」
 参考書や辞書を見比べていた新吾が、感心したように言った。
 「ん? 」
 「国によって読み方が変わるのだ。ギヨームはフランス語だが、ドイツ語になるとヴィルヘルムになるのだ」
 「ヴィルヘルム! 」
 「うん、似ても似つかないよな」
 新吾は辞書に視線を落としたまま答えると宿題の単語を調べ始めた。

 二年以上前の出来事を思い出し、摩利はいまさらに苦笑した。
 アムステルダムに旅立った日、発車間際のプラットホームでアグネスは公に告白していたのだ。それをボーフォール公もできうる最大限の受け止め方をした。
 ―― おれだけが目前のドラマに気付いていなかった。
 万年筆を握った摩利の頬が、ほんのり紅潮した。机を並べる新吾は、ドイツ語に没頭している。
 ―― とうさまからボーフォール公に、リュシルの結婚祝いを伝えてもらおう。
 辞書を繰る音、新吾の横顔、梅雨の走り雨がいく筋も流れ落ちる窓、外にはうっとおしい雲が連なる空が続く。
 一陣の風が校庭の木々からばらばらと水滴を払い落とした。
 摩利はアムステルダム行きの列車に揺られる従姉の姿を思い浮かべた。きっと、寂しさをこらえながら、でも、はにかんで嬉しそうに頬を染めていただろうと。
                                                      (完)

(2002.3.22 up)

(25)手紙 / あとがきに代えて

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