6, 思惑交錯


 ぱちっと懐中時計の蓋をしめて思音が尋ねた。
「今からだと、明日の朝一番の列車になりますか?」
「いいえ、急げば今日の夜行長距離列車に間に合います。 身の回りのものだけお持ちになれば、お荷物は別便で送れますわ」
長距離列車の時刻調べ、荷物発送の手配、駅への馬車の支度、アグネスはてきぱきと必要な準備に手抜かりはない。
「そうですね、大きなものは別送してもらいましょう」
「お湯は沸かしてありますから、まずは汗をぬぐって…」
「その間に、パリのボーフォール公邸に電報を入れて、われわれもすぐに戻ることを伝えておいたほうが良いですね。 おそらく、公のほうが先にパリにつくはずです」
「ええ、思音の自宅と私の館にも知らせておいたほうが良いし。 すぐに郵便局に使いを出しますわ」
 大人たちのやりとりを聞きながら、摩利はさっさと自分の荷造りを始めた。

 こうこうと冴えわたる月の明るさに星がかすんでいる。 摩利がヴァイオリンのケースを抱えて馬車に乗り込こもうと足元を見ると、月に照らされくっきりと短い影が出来ていた。 コバルト色の水鏡となったヴェルター湖は岸の木立の陰が隈取をしている。 馬が自分たちの影を蹴って馬車を牽く。 沿道に立つ家々のレンガの赤い煙突や濃緑色の針葉樹が薄闇にぼんやりと浮かび上がっては、後ろに流れる。
 プラットホームには他の乗客の人影もなく、アグネスが羽織ったショールを思わずかき寄せるほど薄寒い風が吹き抜けた。 夜行列車のコンパートメントに落ち着くと、それまでは気を張っていた摩利も昼間の乗馬疲れで後先なく熟睡した。 おませな気遣いは忘れてぐっすりお休みと、思音が日本語でつぶやく。 列車は欧州の短い夏の後ろ姿を追うように、夜半の月が白々と注ぐ線路をたどっている。 目を閉じてパリで連絡を取らなければならない取引先に思いをめぐらせているうちに、思音も寝息を立て始めた。



 同じ頃、ベルリンではウルリーケが不機嫌のあまり眠れぬ夜を過ごしていた。
 今回、スペンサー伯爵はインドの彼を連れてこなかった。 例によって外交機密を抱えて、メーリンクのおじいさまと2人して邸宅2階の遊戯室にこもっているので、ルディを連れてこなかった理由を聞きくこともできない。 それがまたウルリーケの不機嫌を助長している。
「本当に! そのために、わざわざペルチャッハからひとりで戻ってきたというのに! 」
ぶつけどころのない怒りを言葉にしてぶつぶつと口の中で繰り返すと、ますます腹が立って目が冴える。
「5月には、次回ベルリンに来る時もインドの彼も連れてきてくれると、伯爵は言っていた。 …もしかして、ルディが来るのを嫌がったのかしら? 私に会いたくないから?」
拠り所ない憶測が邪推を呼び、怒りが不安に変わってゆく。 いたたまれず起き上がって、素足のまま窓際に立った。 西に傾きかけた橙色(だいだいいろ)の大きな月の上を、なにやら鳥が渡ってゆく。
「月明かりで飛べる鳥だっているのに」
無意識のうちに房飾りのついた重いカーテンの端を、力いっぱい握りしめていた。

 滞在3日目になって、2人の元大臣は庭の東屋に場所を移してチェスを楽しむようになった。 ウルリーケには知るよしもなかったが、3日間の密談の結果をまとめてドイツ政府の高官に回して、その返答を待っているところだった。 その返答を持ってスペンサー伯爵は英国に戻ることになっている。
 自由な時間がとれてもスペンサー伯爵自身は街中へは出かけない。 不必要に人ごみを歩き回るような無用心なことはしないのだそうだ。
 とりあえずとは言え今回の相談の重荷もおろし、チェスも一勝負ついて老人たちが機嫌よく麦酒を酌み交わしている。 ウルリーケは庭先を散歩する風を装ってスペンサー伯爵に挨拶した。 話のついでにそれとなく水を向けても、体格の良い英国貴族はウルリーケの本音の質問には全く気づかない。 異国の若者のことなど、国家機密を抱えた元大臣には取るに足らない雑事で、記憶の片隅にもないらしい。 あきらめて、ウルリーケは突然その場で思い出した口調を作った。
「そう言えば伯爵、この前、お見えになったときにお連れになった、あの、ええと、何処の国からだったか留学生はどうしていますか?」
麦酒で気分が良くなっているのか、スペンサー伯爵が軽い調子で答える。
「留学生? ああ、お嬢さんのお気に入りのインド人ですね。 ロンドンの大学が夏休みになったのでインドの実家に帰っていますよ」
伯爵にしてみれば、ウルリーケが異国の人間に関心を持つのは、毛色の変わった物珍しさゆえだろうとしか考えられない。
「秋にはロンドンに戻るはずです。今度私がベルリンにくる時には、また一緒に連れてきましょう」
「ええ、よろしければ」
ほっとした思いを気取られまいと、ウルリーケも軽い調子で微笑む。
「立ち話もなんだ、おまえもかけなさい」
陶製の大きな麦酒のジョッキを手に、メーリンク子爵も機嫌よく孫を横に座らせた。 ウルリーケが座に加わるとスペンサー伯爵はいよいよ饒舌になった。

 「なにしろ、あれには“インド文官勤務”試験に合格してもらわないとなりませんからね。 縁者にインド政府の高官がいるのといないのとでは、大変な違いがあるんですよ」
 当時、本国から派遣されたインド本庁の英国人政府高官は、世界的にも異例の高給が保証されていた。 しかし、その反面、インド国内で実業への手出しは厳禁されている。
 その点、ルディの場合は、実家の一族が広くインドで実業を手がけ、しかもルディ本人がそのうちインド本庁の政治に直接関わると、実に都合のよい分担が可能だ。 インド本庁の匙加減があれば、濡れ手に粟の商売がいくらでも可能になるだろう。 ルディの父方の縁戚でも、甘い汁をたっぷり吸えるようになるはず ―― これが、スペンサー伯爵の思惑だ。
 「いえね、インド国民会議が分裂しそうだとか、議員をやっているあれの伯父さんが困っているなんて言ってましてね。
 インド人たちの身のほど知らずには、ほとほとあきれますよ。 われわれ英国が指導してやっているからこそ国として成り立っているのが、どうして理解できないのか」
 史上稀に見る残虐行為の応酬の末、セポイの反乱が鎮圧されたのは半世紀前のことだった。 英国軍は破壊・略奪の限りを尽くしてムガール皇帝を捉えて追放し、インドの植民地化がいよいよ確定した。
 英国の搾取でインド経済の疲弊は著しい。 飢饉、疫病が頻発するが英国政府の不適切な対応がその被害を拡大し、人々の惨状は目を覆うばかりだ。 たまりかねたインド政府は、人種差別的統制の緩和・撤廃を今日に至るまで繰り返し懇請している。 が、聞く耳持たずの英国側の態度は変わらない。
 そんな歴史も現実も、スペンサー伯爵にはひとかけらの疑念も、憐憫の情もたらさない。

 「国民会議? 分裂?」
ウルリーケは伯爵の言葉に、理由(わけ)もなくギクッとした。
 インドの政治のことなど何も知らないが異様な胸騒ぎがする。 自分の心臓の音が、となりに座る祖父にまで聞こえるのではないかと思うくらい鼓動が早い。 そうなると、ぴんと跳ね上げた口ひげをつまむようになで上げるスペンサー伯爵の癖までが、不気味で倣岸に見える。 もはや、伯爵の話はウルリーケの目の前を素通りしている。
 ルディは、インドを豊かな国にしたいと夢を語っていた。 ウルリーケの脳裏には、にぎやかなウンターデンリンデンを歩きながら晴れ晴れとした表情で語った褐色の肌の若者の姿が蘇る。
「未発達の鉄鋼業に力を入れなければなりません。いつまでも綿花に頼っていては先細りです」
母国の未来を信じるまっすぐなルディの声が今でも聞こえるようだ。
 この後、4ヶ月足らずのうちにインド国民会議は分裂し、その余波はロンドンにも及び留学生までも巻き込む事件に発展する。 ウルリーケの胸騒ぎは避けられない未来を予知していたのかもしれない。



 摩利が部屋に案内された時、アグネスは電話中だった。 彼女は受話器を耳に当てたまま摩利にソファに座るように目で促して、かまわず話を続ける。
 「やっと連絡が着きましたわ。 ええ、ボーフォール公が知らせて下さって、とってかえしましたの。  え? もちろん、男爵やポワティエの人たちが心配だったから戻りましたのよ。 昨夜パリに着いたのですが、ずっとポワティエにお電話がつながらなくて、男爵に何があったのかと…」
 行きがかり上とはいえ、アグネスとS男爵の立ち入った話を聞くことになってしまって、摩利はひどくばつが悪い。 メイドがローテーブルにお茶を置いて立ち去った。
 二人きりになっても、話し込んでいるアグネスを見つめるわけにもゆかず、摩利には眼のやり場がない。 それとなく周囲に視線を散らすが、女性の私室をじろじろ見回すのも気が引ける。 窓の向こうの小さな噴水の周りで餌をついばむ鳥たちを見つけてほっとしながら、何羽くらいいるかと数えてみた。

 「お隣でそれだけの騒ぎがあったのなら、一刻も早くポワティエを離れてパリに避難して…。 もちろん全員でです。焼き討ちの火が見えているのに、そんな悠長なことを言って。 列車が不通? 馬車で裏道を抜けて、パリまで。 ええ、時間はかかってもそれだけ混乱していたら、馬車を出す方が安全だと思いますけれど」
 マレーネによく似ていると言われるいつもの柔らかいアグネスの声だが、今日は妙に口調の冷たさが摩利の耳に刺さる。 それは、情を排して、理詰めで考え抜いた結果を伝えるが故の冷たさなのだが、さすがに13歳の摩利にはわからない。
 「申し訳ありませんが、私はここで雑用を済ませたら、今日明日にでもペルチャッハに戻ります。 建物に傷みが出ているので、冬に備えて修繕の指図をしなければなりませんから。 当分、向こうで作業の様子を見ることになると思います。
 そういうわけで、男爵や他の人たちをお迎えはできませんが、皆がこちらで過ごすための用意は整えておきます。 ええ、くれぐれもお気をつけて来てくださいね」
 受話器を置く音に摩利が振り向くと、アグネスが大きく肩を上下させてふうっと息をはいたところだった。

(2001.4.5 up)



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