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ミネルバのフクロウは宵闇の訪れを待って飛び立つ


第 四 話


 「ああ、むしゃくしゃする。思いっきりひっぱたいてやればよかったわ」
 周囲に人影がないのを良いことに、さやかがひとりごちた。数時間前の腹立ちが再燃して、常になく大きな歩幅で廊下を踏みしめる。救急箱を抱える腕にもむやみと力がこもった。
 さやかの知性と理性は、手を出さなくて良かったと言っている。
 お互いにそのまま終わる性分ではない。皮肉を浴びせればより強烈な皮肉が返る。ひとつ手を出せば三つ手が返る。なにをしても事態はひたすら悪化する。このパターンは数え切れないほど経験済みだ。
 だからといって腹の虫はおさまらない。
 「ひっぱたいてやればよかったわ」
 時間をさかのぼれるなら、さやかは知性も理性も置き去りにして、喜び勇んで甲児をひっぱたきに駆け戻っている。
 「なぜかしら…。すごく気分が悪かったのよ。ううん、気分が悪いっていうのとも違う。なんて言えばいいのかしら……。とにかく、甲児くんがミネルバのフクロウは…」
 父の私室の扉が見えた。さやかがひとり言を中断する。
 「ああ、さやかか」
 ノックもなく開いた扉に、弓教授が少し驚いたように顔を上げた。安楽椅子で本を読んでいたらしい。
 「あ、ごめんなさい、おとうさま。考えごとしていて…」
 娘がノックを忘れたのは珍しいが、私室でのことだからか父にとがめる気配はない。さやかは父が膝に広げた分厚い洋書にそっと目を走らせる。ガウンをはおってくつろいだ雰囲気だが、読んでいるのは仕事関係の専門書だ。
 「もう少し後にしましょうか」
 学者の娘は極力「おとうさまのお仕事」を妨げたくない。
 「いや、ちょうど区切りがいい」
 弓教授は短冊のような革製のしおりをはさんで、厚表紙の本をサイドテーブルに置いた。その横にさやかも救急箱を置き、片肌脱ぎになった父の左腕から静かにガーゼをはがす。
 弓教授の肩から上腕はいまだに赤黒いかさぶたが広がり、ところどころリンパ液がにじんでいる。かさぶたの中央には、腕に沿って盛り上がった硬い筋が走る。長さ十五センチ、筋肉が裂けて縫合した部分だ。
 弓教授がレーザー銃で撃たれた夜、処置を終えた医師は父と娘に説明した。
 「筋肉の縫合は本来なら抜糸しませんが、火傷もあって一部の糸が外に出ているので、その部分は抜糸します。一週間から十日のうちには取れるでしょう。
 抜糸がすむまでは毎日消毒が必要です。夜間でも当直の医療スタッフが対応しますから、所長の都合の良い時間に処置室に来てください」
 父より先に娘が答えた。
 「消毒なら、あたしがやりますわ。救急箱をお借りできますか」
 言い出したら聞かないお嬢さんのために、医師は救急箱をひとつ用立てた。
 あれから半月、さやかは一日欠かさず就寝前に救急箱を抱えて父の私室に通っている。
 今夜もさやかは救急箱からピンセットと脱脂綿、そして消毒薬の瓶を取り出す。瓶を少しかたむけてピンセットを差し入れ、脱脂綿に茶褐色の消毒薬を含ませた。一回の使用量はさほど多くないが、夜ごと手当てを繰り返すうちに瓶の中の消毒薬は目に見えて減っている。
 ピンセットの扱いもすっかり板についた。早く痛みがなくなりますように、ケロイドにならず、きれいに治りますようにと、祈るような気持ちでリンパ液がにじむ傷を、はじからそっと押さえる。
 「しみる?」
 「いや、平気だよ」
 「今日も暑かったから昼間はつらかったでしょう」
 冷房が効き過ぎる時、屋外の作業で汗をかいた時、黙って痛みをこらえている父をさやかは何度となく見ている。
 負傷から一週間後、医師は「もう少し傷が落ち着くのを待ちましょう」と言って抜糸を見合わせた。十日目の診察でも抜糸は見送られた。
 救急箱の横に置いたガーゼがさやかの目に入った。今さっき父の肩からはがしたガーゼには、薄茶色のリンパ液のシミがいくつもできている。
 「明日は抜糸できると思うわ」
 意識していつもの明るく気丈な口調で言い、救急箱から新しいガーゼと絆創膏を取り出す。
 なんだか回復が遅いみたい。明日、抜糸できるのかしら――。
 胸をよぎった不安が顔に出たらしい。父が笑い話めかして言う。
 「三度目の正直と言うが、どうだろうね。どのみち、十代のさやかや甲児くんに比べれば、回復に時間がかかるのは仕方ない」
 さやかは父の言葉につきあって微笑んだ。しかし表情は硬い。
 おとうさまは腕の傷より、心の傷がどれだけ大きくていらっしゃるか――。
 弓教授を撃った鉄仮面は、スミス博士に化けて光子力研究所に潜入したのだ。
 ショッキングな事件だった。
 が、弓教授のケガは命に別状なく、さやかとボスは首尾よく救助され、甲児も無事、ジェットスクランダーやマジンガーZも無傷だった。
 最悪の事態は避けられた。誰もが胸をなでおろし、亡くなった警備員の冥福を祈った。
 けれども、その直後、あの鉄仮面はスミス博士が殺されて改造されたものだったと判明した。
 あの時の愕然とした想いに、今でもさやかは唇をかむ。
 あたしたちみんな言葉もなく驚いて、悲しんで、怒った。
 甲児くんなんか、「ジェットスクランダーの生みの親のひとりが、ドクターヘルに殺された」って、大泣きした。
 シローちゃんだって、「改造されてもスミス博士だったから、弓先生の急所を撃てなかったんだ。絶対そうだよ」と、泣きじゃくりながら誰にともなく言い張っていた。
 だけど長年スミス博士と親交があったおとうさまの悲しみと無念さはもっと深いはず。
 きっと、「わたしがジェットスクランダーのアドバイスを頼んだからスミス博士は殺されたのだ」と、ご自分を責めていらっしゃるわ――。
 「おや」
 父が開け放った窓に目を向けた。
 「え」
 さやかが新しいガーゼを折り畳む手を止めた。
 「ベランダにでもいるのかな」
 父の言葉にさやかが耳を澄ます。チョンチョンとかぼそい虫の音がコンクリートの内壁に響いている。
 「スイッチョね」
 さやかも開け放ったサッシの外を見やるが、小さな草色の虫の姿が見えるはずもない。夜風に乗って清んだ鳴き声だけが流れてくる。
 「どうやって、こんなところまで登って来るかしら。蚊もめったに入ってこないのに」
 弓教授の私室もさやかの私室も三階にあるが、研究所施設の天井は高い。普通のマンションなら五階に相当する高さだ。
 「もう秋なんだわ。昼間はまだ蝉がうるさいくらいだけど」
 父の傷にガーゼを当てて、さやかがつぶやいた。
 「蝉がうるさい?」
 研究所の室内では蝉の声は聞こえない。
 「甲児くんの家よ。あそこは家のまわりに木が多いから」
 父の何気ない反復に、絆創膏でガーゼをとめながら少しあわて気味に答える。
 「そういえば、シローくんにケガはなかったのかね」
 午後から行き違いで父には詳しく話していなかった。
 「ええ、ずいぶん汗はかいていたけど、脱水症状というほどではなかったわ」
 さらりとガウンをはおる父の左腕の動きをそれとなく眺めて、救急箱を片づけにかかる。
 「そうか、それはよかった。甲児くんもさぞ心配だったろう」
 父の言葉にさやかは、シローの説明を聞く甲児の仏頂面を思い出した。
 甲児くん、か。この時間なら、シローちゃんの宿題はもう終わっているわね。ふたりでフクロウの話でもしているのかしら――。
 よくあることといっても、甲児とけんか別れした日は気分が悪い。特に今日のように自分が口火を切った日は、腹立たしさと後悔が心の中でぶつかりながら渦巻いている。
 「どうした、さやか」
 ピンセットと消毒薬を持ってぼんやりしていた。
 「いえ、その、おとうさまは、ミネルバのフクロウは宵闇の訪れを待って飛び立つ、というフレーズをご存知?」
 胸にわだかまっていたものが、ほろりとこぼれた。
 「ヘーゲルの『法の哲学』にある言葉だね」
 なぜそんなことをきくのか。父は問い返すことなくさやかの疑問に答えてくれる。子供の頃からこうだった。
 「ヘーゲル?」
 さやかには思想家、哲学者としかわからない。
 「どういう意味ですの」
 「さまざまな解釈があるから、わたしも全部を知っているわけではないが」
 「甲児くんが、おじいさんの日記に書いてあったって」
 うつむいて救急箱のふたを閉めながら、早口で言い足す。
 「兜博士の日記に?」
 「ええ」
 甲児と埒(らち)もない諍(いさか)いをしたことは父に告げたくない。さやかは言いよどみ、言葉を選ぶ。
 「でも、兜博士の日記には、どんな意味かは書かれていなかったみたいで…」
 数秒間(ま)があいた。見ると父の頬になつかしそうな微笑が浮かんでいた。
 「兜博士の日記であれば意味ははっきりしている」
 弓教授は「うん」と、自分の言葉に小さくうなずく。
 「さやかはミネルバがなにを意味するか知っているね」
 「はい、ローマ神話の女神で、戦いと勝利、法と裁き、学問と技芸をつかさどって、ギリシア神話ではアテネ」
 「そう、ただし、ミネルバやアテネがつかさどる戦いは、正義の戦いに限る」
 「そして、フクロウはミネルバやアテナの使いでしょ」
 再度記憶を確かめたのか、一呼吸、父の視線が窓の外に流れた。
 「戦乱や犯罪で世の中が暗くなると、正義を勝利させ、秩序を取り戻すためにミネルバは人間の世界に使者をつかわす――、兜博士はそういう意味を込めているはずだよ」
 どうしておとうさまはご存知なのかしら。博士の日記にも残っていないのに。膝に救急箱を乗せて小椅子に座る娘が、視線で尋ねる。
 「わたしは兜博士から直接聞いたことがあるのだよ」
 父が温和な視線を返す。
 「この前、ミネルバXを設計中の兜博士を訪ねたことがあると、さやかと甲児くんに話したと思うが」
 「はい」
 光子力研究所にミネルバXを迎えた夜の父の話を、さやかはよく憶えている。しかし、それは思い出したくない出来事につながっている。
 「その時に話が出たのだよ」
 自分の中でとめどなく広がりそうな一連の記憶を押さえ込みたくて、さやかは息を詰めた。
 人間の話し声がとぎれるのを待っていたように、チョンチョンとスイッチョのかぼそい声が聞こえた。昼の猛暑を癒すゆるやかな夜風は、それでも傷にさわるのか弓教授の右手がかばうように左腕をなでる。
 わたしが兜博士にミネルバXの話を聞いたのは、何年前になるのか――。
 弓教授の脳裏に、甲児やさやかに話さなかったことまでまざまざとよみがえる。
 
 
 
 
 あの日――。
 雲とも見えないほどにうすい雲が空を淡い水色につつみ、太陽が研究室にもまろやかな光をそそぐ日だった。
 兜博士は窓ぎわの机にミネルバXの設計図を広げると、「勇ましい豪傑の心をなごませる優しい女性」と説明して呵呵(かか)と笑った。
 恩師の小粋で洒脱な哄笑にいささかウェットなものを感じたのは、うららかな陽気のせいだったのか。
 「設計だけですか」
 一番弟子の問いかけに天才科学者は鷹揚にうなずいた。
 「製作はまだ早かろう。昔から、ミネルバのフクロウは宵闇の訪れを待って飛び立つと言うからのう」
 観念論的哲学者のたとえ話をどう解釈したものか。
 生真面目な弟子のとまどいに、兜博士は声を立てず、だが愉しそうに笑った。
 「ヘーゲルの『法の哲学』は1821年に公刊された。さて、その百年後、1921年、わしは…」
 語尾を濁して愛弟子に視線を向けた。
 「そのころ博士はドイツに留学なさっていたと」
 期待どおりの答えが返る。
 いつもながら、全部を言わずともわしが伝えたいことを十全に察している。これならわしの後任を託しても、現場の采配に問題はなかろう――。
 こんな思いはおくびにも出さず、兜博士は留学時代の思い出を語った。
 「オクトーバーフェストだったか、カンシュタット・フォルクスフェストだったか、ブレーマー・フライマルクトだったか、しかとは憶えてはいないのだが」
 「あの」
 ドイツ各地の祭りを列挙されて思わず口をはさんだ。弦之助の困り顔に兜博士はからから笑った。
 「ドイツの祭りは一リットルジョッキでビールを鯨飲する、それが真髄だ。その一事に尽きる。場所がミュンヘンだろうが、シュトゥットガルトだろうが、ブレーメンだろうが関係ない。五百ミリリットルのジョッキは邪道だ」
 「真髄。一リットルジョッキで、鯨飲が」
 博士、あなたは留学中にドイツ各地のお祭りを渡り歩いて、浴びるようにビールを飲んでいたのですか。それとも物のたとえか言葉のあやですか――。
 他に人のいない研究室でも口に出しては尋ねられなかった。
 絶句する弟子にかまわず兜博士は軽妙な語り口で物語った。
 
 
 そう、時に1921年、なんの祭りだったか、しかとは憶えていない。だが、学部も専攻も関係なく地元の学生や各国の留学生たちが飲み明かしたことがあった。
 「ベルリン大学のテキスト『法の哲学』公刊百周年を祝って、乾杯(プロージット)」
 誰かが大ジョッキを高々と持ち上げて叫べば、ここそこで「乾杯」「乾杯」と野太い声が呼応する。
 乾杯のネタはなんでも良い。肴になるネタならもっと良い。
 「ミネルバのフクロウは宵闇の訪れを待って飛び立つ。それが、どうしたって言うんだ。おれの郷土(くに)じゃ、その昔は普通に使われていた諺(ことわざ)だって、じいさんが、そのまたじいさんに聞いたって言ってたぞ」
 「おまえのじいさんって、何者だよ」
 「これでもおれのうちは学者の家系だ。じいさんも、ちっとは知られた哲学者だった」
 「それでミネルバのフクロウがどうしたって」
 「だから、ミネルバって正義と知恵の女神さまは、世の中が暗くなったらお使いを出すって単純な意味だったんだ」
 「今でもそういう解釈もあるぞ」
 「だから、それだけだったんだよ。ところが、お偉い先生が、長ったらしいくせに尻切れとんぼ、脈絡ない省略ばっか、文法的にも破格ばっか、思いっきりわかりにくい文章バラバラな、ご大層なご本に、さもさも意味ありげに使ったもんで、小難しいたとえ話になっちまったんだ」
 「おまえの話もバラバラになってるぞお」
 「いいじゃないか、なんだって」
 「さあ、ミネルバとフクロウに、乾杯」
 というわけだ。
 まあ、一リットルジョッキをごろごろ空けながらの話だからのう、真偽のほどは定かでないがのう。
 
 
 恩師は再び洒脱な、今度は少し乾いた哄笑を聞かせて話を結んだ。
 真偽のほどは定かでない? 兜博士はわたしになにを伝えたいのか――。
 弦之助は恩師の真意をはかりかね、話の接ぎ穂が見つけられなかった。兜博士はそれ以上なにを語るでもなく、ミネルバXの設計図を片付けた。設計図面を畳むカサカサした紙音が弦之助の耳にまで届く静かな研究室だった。
 
 
 
 
 安楽椅子から立ち上がって、弓教授はガウンの腰紐を結び直した。開け放った窓に歩み寄る。スイッチョの声がやんだ。月のない夜空の天頂で、木星が白々と富士山を照らしている。夜目にも優美な山容だ。
 父の背中を見ながら、さやかは考える。
 甲児くんに、兜博士はヘーゲルの言葉を引用したのだと知らせたほうがいいのかしら――。
 なんだか気が進まない。おそらく楽しい会話にはならない。そんな予感がする。
 「おやすみなさい、おとうさま」
 救急箱を抱えてさやかが部屋を出る。
 「おやすみ」
 娘を見送り、窓を閉めた。夜のガラスに居室が映る。
 あの時の兜博士の哄笑には、いつもとは異質の硬さがあった――。
 「ささいなことをはっきり思い出したものだ」
 当時はわからなかった事情が今はよくわかる。
 マジンガーZやミネルバXを設計していた時、兜博士は常にドクターヘルの野望を意識していたはずだ。
 そして留学時代の出来事を、愛弟子が面食らうほどおもしろおかしく語り聞かせた。
 あるいは、若者たちの乱痴気騒ぎの場に、学生時代のドクターヘルの姿もあったのかもしれない。兜博士とドクターヘルはドイツの大学で同窓だったのだから。
 ともすれば、兜博士が「なんの祭りだったか、しかとは憶えてはいない」と言ったのも方便だったのかもしれない。あまりに克明な記憶を笑い話にすりかえるための。
 「ありえない話ではないが…」
 わたしが異質な硬さを感じたのは、当時、兜博士が人知れず抱えていた緊迫感、危機感ゆえだったのか。不本意な寂寥感もあったのだろうか。もしかしたら一抹の闘争心もあったのかもしれない――。
 時は流れ、恩師の心情が推しはかれるようになった。しかし、時は流れ、真実を知る術は押し流されてしまった。
 弓教授はなにかを閉じこめるようにカーテンを引いた。ガラスの中の居室が消えた。

(2006.07.16 本文 UP)


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