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摩利と新吾ネタバレ掲示板過去ログ
51〜60


(51) DOZI様との会話
名前:ゆりあ    日付: 5月24日(土)13時35分57秒

 先日、木原先生に所用のお電話を差し上げたとき、ついでにあらDOZI近況もご報告しました。

ゆりあ   「摩利新掲示板」ですが、「夢殿さんと摩利くんの関係はいつ頃まで続い
      ていのですか」なんて、質問があります。
DOZI様 う〜〜〜ん、いつ頃までだったんだろう(笑)
ゆりあ   「摩利くんの東京の家の使用人の人数」とか
DOZI様  あはは、面白そうね、その掲示板。

 というわけで、この掲示板の質問をそのまま印刷して木原先生にお送りし、木原先生がお返事を書いて送り返してくださることになりました。
 もちろん、お答が全部の質問になるか、一部になるかは先生に全面的にお任せです。  でも! とにかく、この掲示板に書かれた質問は確実に木原先生のお目に入ります。

 ちなみに、「白泉社と泉白菊丸はまったく無関係です」とのことです。
 『わが殿』のときに歌舞伎の『桜姫東文章』にあやかって白菊丸とつけて、『縞りんご』で座りの良い一文字の苗字ということで「泉」にしたのだそうです。

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(52) 先生が!
名前:ゆみ    日付: 5月25日(日)18時28分16秒

直接お返事を下さるということですか♪
それなら質問その1。
まず、なぜ篝くんはあんなに病弱で細いのに髪のつやが大変よいのか!(笑)

それから、これ↓はご存知の方がいらしたら教えてください。
1.額田様の下の名前はなんなのでしょうか?
2.5巻でしのさんが燃やしてしまった「貴女をお慕ひ」云々の手紙はひさこさんが扇と一緒に落としていったものですよね??  あたりまえじゃん!とおっしゃるかもしれませんが内容が内容なのでどうなのかなぁ、と。
3.第一桜豪寮歌以外のちゃんとした楽譜がある寮歌は存在しないのですか?


ずらずら書いてしまってすみません。(^^;)

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(53) 先にも書きましたが、
名前:ゆりあ    日付: 5月25日(日)20時03分59秒

もう一度確認のため申し上げます。

>先生が!直接お返事を下さるということですか♪
この掲示板に頂いた質問は全部印刷して木原先生にお送りします。
けれども、全部の質問にお答え頂けるとは限りません
全面的に先生におまかせです。

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(54) まりしんの舞台はどこだ!
名前:てまり    日付: 5月27日(火)00時30分36秒

ドジさまのお目に触れられるという光栄と多少の邪心を以って、かねがね考察しておりました項目をしたためたく。

摩利の家は南麻布でした。そこから徒歩圏に新吾の家はありました。どこでしょう?
ゆりあ様のホロスコープ作成時のご考察でも徒歩圏の山の手とあります。ふと、白金あたりでどうだろうと今日、仕事中にいきなりひらめいたのですが....。
摩利の回想で、子供時代新吾のおばさんから「外人の子は臭い」といわれた時、「ぼくは帰るから」と、一人で帰る意志を示しています。子供の足で行き来することを考えると、白金まで行ってしまうと(いや、白金って、私のいきなりの思いつきに過ぎないんですが)当時かなり自然があった南麻布界隈で、子供の行き来はむずかしかったんじゃないだろうか。
今は名のみそれをとどめる麻布大学の獣医学部は、明治23年の創立時から太平洋戦争直後まで、本当に南麻布にその敷地を持ち、牛馬をしこたま飼っていられる環境だったはずなのです。それにわりと山坂だったんじゃないか。
むしろ、きっちゃんと迷子になったというエピソードを踏まえると、新吾の家も、麻布という地名の範疇のところにあったと考えていいのではないでしょうか。

そして、われらが持堂院。
同じく戦後の学制改革をくらった、当時は武蔵野と言われた、今でも東京の「はずれ」に位置する土地の成城、成蹊があったあたりをドジ様は想定しておられるのでは?
設立時期はずれますし、持堂院のモデルだったとまでは限定して考えませんが、これらの一方が私立旧制高校だった時代に学ばれた方を数名存じ上げておりますが、帝大に進まれたり、お医者様になられたりと、優秀な人材が多く排出されていました。
うかがうに、昔のそれらの学校の敷地は(今も広大ですが)大変広く、敷地内に林なんかあって当たり前でたぬきくらい勿論いたそうです。成城や成蹊のある吉祥寺あたりだと、新吾の両親が温泉へ行くときに、新吾の顔を見に寮に寄って行ったというコースもうなづけるものがあります。

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(55) ゆみ様と同右ですが・・・
名前:シマリス    日付: 5月27日(火)15時00分36秒

ここの文章がDOZIサマのお目に入るということに一筋の希望と光を見出しまして、疑問が一つばかりございまする。

持堂院第一桜豪寮歌についてですが、これ、韓国の友人が欲しいというので、歌詞を韓国語に訳して楽譜をフィナーレ(楽譜作成ソフト)で打ち直し、あげました。
すると、友人曰く「あれ、3学年あるのになんで1番しかないの?2・3番は?」
たしかにあれしか楽譜&歌詞が載っていないので、当然のことながら2番3番が気になるところであります。第一があるのだから、第二・第三があるはずだ〜っと。
実際、文庫版の第8巻の持堂院が旧制高等学校でなくなる式典(?)の時の皆が寮歌を歌っているところでは、少なくとも第一〜寮歌にはない歌詞を歌っていますので、本当は第二・第三まであるはずだ、と睨んでいるのですが・・・。

DOZIサマ、持堂院寮歌の真実やいかに・・・?

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(56) (無題) 
名前:てまり    日付: 5月28日(水)00時08分47秒

何故か久しぶりにミッシェル・ポルナレフという人の「愛の願い」という歌を聴いていたら、摩利の顔が浮かんだ....賛同してくださる御仁のありやなしや.....

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(57) 桜豪寮寮歌について
名前:水玉みかん    日付: 5月28日(水)10時13分23秒

亀レスですが、シマリスさま、ご教示ありがとうございました。
文庫版あとがきを読みました。

実は、“「わが殿」では摩利がハーフではなかった”という文章はどこかで読んだおぼえがあって、ここへ書き込む前に「しまりんごスペシャル」やら、「ぱふ」やらひっくり返して見たのですが、発見できませんでした。
DOZIさまご自身の“あとがき”を見逃していたとは、マニアックに走りすぎて基本が抜けていましたね。(反省)
私がかつて読んだのは、おそらく秋田書店から出ていた愛蔵版のあとがき(文庫版のは再録と書かれていたので)であったと思われます。

さて、件のあとがきを前提として、なお私の中に残る疑問があるのですが、それはちょっと長くなるので、項をあらためることにしまして、まず、下のみなさまの疑問でDOZIさまのお答えを待つまでもなく、私にもわかることを書かせていただきます。

桜豪寮寮歌ですが、はなゆめコミックスに先行して出版されたLALAデラックスコミックス版の巻末で公募があり、後にLALA本誌誌上で優秀作が発表されました。
そこで、全歌詞が掲載されておりましたが、第1寮歌は3番までありました。
『摩利と新吾』のラスト場面でみんなが歌っているのは全て第1寮歌の歌詞です。
また、その時、第2寮歌もあったのは確かに記憶しています。応募作品の中にいいのがいっぱいあって、一つには決めかねたのね、と当時思ったものです。 なお、その時には楽譜はなかったと思います。
想像するに、後にLPレコード製作時に新たに作曲されたのではないでしょうか。

はなゆめコミックス6巻の終わりの方で、突然襲ってきたやくざ者をたたきのめした後、新吾が「では小生の健闘をたたえて第3桜豪寮歌〜」と言って唄い始める場面があるので、どうやら第3寮歌もあったようです。

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(58) ありがとうございます
名前:ゆみ    日付: 6月 4日(水)17時25分39秒

桜豪寮寮歌についてのお返事、ありがとうございます。
第三寮歌は、たしかに叩きのめしたあと歌っていますね。
それから第二寮歌は、女子修学院で闇ナベをやったあとに歌っているようです。
やっぱり歌詞だけでなくメロディも違うのでしょうか?気になるところです。

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(59) 長くなりそうですが、お許しください
名前:水玉みかん    日付: 6月 9日(月)12時32分45秒

さて、白泉社文庫1巻のあとがきを前提として、なお私の中に残る疑問を書きます。

(しつこいですけど、ネタバレ掲示板でないと、書けないことなので。 特に答えが欲しいというわけではなく、このように考えている者もいるという程度にどなた様にも考えていただけたら、と思います。)

完結した形で見れば、『摩利と新吾』は周到に構築された長編ロマンで、これ以外の描かれ方は考えられないと思われるほどですが、LaLa誌上で掲載開始当時は一つずつ独立したエピソードによる読みきり連載の形を取っていました。
この点で、例えば『杖と翼』のように、最初から長編ドラマの構成を明確にして連載が始まった作品とは、趣を異にしています。

はなゆめコミックスに先行して出版されたLaLaデラックスコミックス版(「摩利と新吾」から「わっしょい」までを収録)の巻末には欄外とは言え、印刷文字ではっきりと“この物語は『あ〜らわが殿』につづいてゆくのです”と書かれています。(初版のみ)
はなゆめ版4巻にDOZI様のおことばとして、はじめは二つをつなげようと思っていたが「夕日にぎんなん五目飯」の時点で方針変更があった旨の断り書きがありますが、想像をたくましくすれば、実の所『摩利と新吾』が長編ロマンとして新たに構成されたのは、この時(「夕日に〜」)以降ではないかと思うのです。

もちろん、二人がお互いの名を呼び合いながら、同時に最期をとげるという結末は、最初から作者の念頭にあったということですし、激動の時代をかけぬけた二人の青春と至高のまじわりを大河ドラマとして描くという構想も、雑誌掲載開始当初から持たれていたのかもしれません。
『あ〜らわが殿』につなげようという制約が創作のかせになったので、方針を変更することになったというのは、やはり作者ご自身が、今日ある形で描きたいという強い希望を持たれてのことと思います。

なぜなら、旧制高校の青春群像を描くというだけなら、そのまま個々のエピソードの積み重ねを続けることもできたわけで、あくまでも『わが殿』につなげることに固執するなら、時系列がおかしくなっても、サザエさん的に時が止まった形で、事件だけを増やすという描き方も有り得たと思うのです。
(まんがなら、こういう形式、珍しくありませんよね。いつまでも高3なのに、何回お正月があるんだ?みたいな…笑)

作者が『わが殿』の呪縛(?)から自由になってくださったおかげで、私たちは今日のような形で摩利と新吾の物語を読むことができ、もはや今となってはこれ以外の形は想像もつきませんし、おそらく、他の形ではこれほどの感動を与えられなかったのではないかとさえ思われます。

以上のことから、『わっしょい』までのお話は、概ね『わが殿』と矛盾しないことを念頭において描かれ、場合によっては『サザエさん』か『有閑倶楽部』のように時の流れを超越した世界になった可能性も秘めていた(ここは、あくまで個人的な想像)、つまり、実際の『摩利と新吾』のような大河ロマンにはなっていなかったかもしれないと、私は考えています。
と、ここまでが、長いけれども前書きです。

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(60) やっぱり長過ぎました
名前:水玉みかん    日付: 6月 9日(月)12時34分27秒

(恐れ入ります。上の書き込みから続けてお読みください)

そこで、摩利があえて日独ハーフと設定された理由ですが、『わっしょい』までに限定して考えると、森鴎外の『舞姫』を彷彿とさせる思音氏若かりし日の恋物語を描くというのが、唯一の目的であったように感じられると言ったら、乱暴すぎるでしょうか?

本編全体を通して見ると、摩利がハーフだという設定は大きな意味をもっています。
日本での差別は、そのまま裏返しになって、新吾が欧州でうける有色人種差別としてえがかれ、さらに屈辱の舞踏会での名場面につながっていきます。
他にもメーリンク家をめぐる人間模様などを考えると、最初から周到に考え抜かれた設定に思われる摩利の出自ですが、本当にそこまで考えられていたのでしょうか。

実は、雑誌掲載時から、すでに私はちょっとひっかかっていました。と、いうのは、篝が“アキレスのかかと”として気づくまで、摩利が一見すると外人に見えて、ひどい差別をうけていたことを示す場面が全然ないことです。
物語が完結した今、文庫本で8冊とはいえ、まとめて読めばその部分までほんの数時間ですから、それほど不自然ではないのかもしれませんが、リアルタイムで雑誌掲載を追いかけて読んでいた時ですと、掲載開始からここまで来るまでに、年単位の時間が過ぎています。
その間、混血で、ドイツ人の母にそっくりで、フラウ・アップフェルの扮装をしたら外人の女性に見える摩利のことを、明治時代なのに、みんな外国人に対する偏見がなくて、すごく自然に受け入れているんだな、不思議だなと思っていました。
この作品はそういう世界なんだと思って読んでいたら、篝のところへ来ていきなり、摩利の“外人風の個性”がクローズアップされ、それ以後は繰り返し摩利に対する世間の風当たりみたいなものが折りに触れて描かれます。
もちろん、それはそれまでは作中で描かれなかったというだけで、差別自体は摩利の幼少時からずっと存在したことにはなっています。
でも、篝の指摘以降に比べると、それ以前は周りの偏見を示す場面があまりにも無さ過ぎるような気がします。

当時としては進歩的なはずの帝大生でさえ、初めて見たら目引き袖引きするほど目立つというのに、あきらかに持堂院の生徒ほどおおらかではなさそうに思われる修学院の女学生たちがこの点に関して何も言わなかったのでしょうか。 (美しさ故に全てを許したのかもしれませんが)

違っていたら大変失礼な想像ですが、もしかしたら、作者自身、篝が気づく場面まで、そういう事をあまり意識していらっしゃらなかったのではないでしょうか。
この想像があたっていたとして、ここでそれを指摘するのは、決して揚げ足とりのつもりではありません。
むしろ、明確な意図のないままになかば無意識のひらめきで摩利がハーフという設定がなされたとしたら、DOZIさまの創作者としての優れたインスピレーションに、今更ながら驚かずにはいられません。
それは結果的に作品世界において欠かす事のできない重要かつ印象的なモチーフとなったわけですから。

一方、私の想像が的はずれで、DOZIさまが当初から今ある形を念頭において全ての設定を伏線として織り込まれていらっしゃったとしたら(それも又十分にありそうなことです)、なおさらにその卓越した物語作りの才能に尊敬の念を抱くものであります。

くだくだと書きましたけど、要は「DOZIさまは、摩利をハーフに設定した時、どこまで考えてそうなさったのかしら?」というのが、今回の私の疑問です。

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