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摩利と新吾ネタバレ掲示板過去ログ
61〜70


(61) (無題)
名前:まりりん    日付: 6月18日(水)14時02分22秒

DOZIさま、こんにちは。早速質問させていただきます。初めての舞踏会で新吾が「せっかくのワルツですから一曲」といって、摩利と踊るシーンがありますよね。新吾の帰国後、欧州に一人残った摩利が、東洋人蔑視のパーティで摩利と踊ったタンゴだと回想するシーンがありますが、摩利と新吾が二人で踊ったのは、ワルツでしょうか?タンゴでしょうか?教えてください。また、私は、数々の名場面の中でも、ドリナを追いかけていく新吾の背中に摩利が「行くなと女みたいに泣いてすがって言える性格なら、もうばかばかしくて、とっくに鷹塔摩利なんてやってないよなあ」という台詞が好きなのですが、DOZIさまの好きな台詞、お気に入りの場面があったら教えてください。

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(62) まりりん様
名前:ゆりあ@管理人    日付: 6月18日(水)14時29分46秒

 この掲示板は木原先生への伝言版ではありません。
 『摩利と新吾』を愛する皆様が心ゆくまでこの作品を語り合うために管理人ゆりあが個人的に設置したものです。 今回のような木原先生への私信モードのお書き込みは、この掲示板の趣旨に反します。 私信モードの書き込みは削除もしくは木原先生への送付除外を検討いたします。
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(63) 素朴な質問ですが・・・
名前:なおえ    日付: 6月18日(水)22時22分30秒

摩利と新吾の子供の名前は何と言うのでしょうか?ドリナの子供は、新吾との子供でしょうか?

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(64) ドリナの子供について
名前:ゆりあ@管理人    日付: 6月18日(水)23時38分46秒

は、拙サイト「DOZIさまがいいの!」のページにある「6,ドリナの娘をめぐる一考察 本論」をご参照下さい。 この結論は、一応、DOZIさまのお考えにたどり着けているそうなので。

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(65) 次なる疑問(『題知らず』に関するあれこれ)
名前:水玉みかん    日付: 6月25日(水)12時04分43秒

長編『摩利と新吾』第4話『題知らず』は、若き日の鷹塔思音氏のお姿が見られるなかなか美味しい一篇です。
最初に読んだ20数年前、回想場面の「伯林1888年」という一節にきっとこれは、海渡英祐の乱歩賞受賞作品『伯林―一八八八年』というタイトルからの流用だ、と思ってニヤリとしました。 それ以来、ずーっとそう思い込んでいたのですが、それは正解でしょうか、というのが、今回の疑問です。

もちろん、思音氏とエリザベート・ナハチガルとのエピソードは森鴎外の『舞姫』をベースにしていることは明らかですし、海渡氏の『伯林―一八八八年』も伯林留学中の鴎外が事件にまきこまれてといった趣の『舞姫』裏話の形をとっています。 そして、鴎外がドイツ留学を終えて帰国したのは、明治21年(1888年)で、『舞姫』の時間設定もほぼ同じ頃になっています。 だから、海渡氏の作品を経由しなくても、『舞姫』から直接「伯林1888年」というフレーズが導き出されたということも十分に考えられます。 ただ、『舞姫』の作中では年を表わすのに西暦ではなく元号が使われていますので、「伯林1888年」という表記そのものはありません。

結衣ちゃんのシリーズなど、ミステリーまんがもお描きになるDOZIさまですから、『伯林―一八八八年』が出典ならいいな、というのは、私の願望です。

さて、話は横にそれます。
『舞姫』で、西暦が使われていないということを確かめる為に今回、読み返してみましたら、新たな発見がありました。
『舞姫』では、作者鴎外の分身である豊太郎の恋人は、エリスという踊り子ですが、『題知らず』では、もちろん豊太郎が思音、エリスがエリザベートにあたるんだろうと長年思い込んでいました。 舞姫→歌姫、という連想も自然ですし。
ところが、『舞姫』では、豊太郎が最初にエリスに出会うのは、夕暮れ時にウンターデンリンデンを通りすぎて、しばらく歩いた街角の寺院の前なのですね。 思音がマレーネに出会った月明かりのウンターデンリンデンの石畳とは、少し違いますが、状況は似ているような気がします。

そして、エリスは金髪碧眼の乙女ということで、ルックスからいうと黒髪のエリザベートよりも摩利の母マレーネのイメージに近いと思いました。
原文の、「この青く清らにてもの問ひたげに愁(うれひ)を含める目の」なんて、マレーネ、ひいては摩利の瞳の形容にぴったりじゃありませんか。 (摩利は碧眼ではないでしょうが)
また、「被りし巾(きれ)を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて」とありますから、エリスはスカーフみたいな物をかぶっていたようですが、フードをかぶったマレーネ初登場の絵と重なるように思われます。(さすがにこれはこじつけかも?)

つまり、エリザベートもマレーネも両方、エリスの分身と言えるんじゃないか。思音氏の青春時代のエピソードは、ハッピーエンドの『舞姫』なのではないか、と思うのです。
『舞姫』では、豊太郎は本国での出世のためにエリスを捨てるわけです。
欧州から遠い日本へ花嫁となっていく方も一大決心でしょうが、それ以上にこの時代の日本では異国の女性を妻として迎えるという事は今よりずっと抵抗が大きかったと思われます。
『摩利と新吾』でも、物語の後のほうで、マレーネを伴って帰国した思音が親類縁者から絶縁され、暖かく迎えてくれたのは新吾の父だけだったという場面があります。 あまりにも早過ぎたマレーネの死を思うと、結局は悲恋と言う事もできますが、少なくとも思音自身は自らの愛を貫き、まっとうしたという意味でハッピーエンドと言ってもいいと思います。

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(66) 『題知らず』あれこれ (つづき) 
名前:水玉みかん    日付:6月25日(水)12時05分54秒

欧州留学編で、メーリンク家の人達が登場し始めた時、「マレーネの実家って、こんなに立派な家だったのか!」とちょっと驚きました。
たしかに『題知らず』では、メーリンクという家名は出てこないものの、「気高い心の子爵令嬢」という言葉で、由緒のある家の出身なのだろうとは思っていましたが、でも格式は高いけど現在はあまり裕福ではない貴族の家柄と言う風に考えていました。
だって、仮にも「姫」と呼ばれる立場の令嬢が、夜も更けてから、心利いた付き添いの一人も連れずにベルリンの大通りをうろうろしていて、人品卑しからぬとはいえ、どこの馬の骨とも知れない外国人の青年の世話になるというような事態に陥るでしょうか?
絵を見ると、まるで路上でしゃがみこんでいたかのようなマレーネですが、メーリンク家のお嬢様ともあろう者なら、当然外出時は馬車のはず。19世紀の欧州で、深窓の令嬢が夜道を一人歩くなんて、(つむじ風のウルリーケならともかく)考えられません。しかも、自宅は「はるか郊外」にあるわけですし。
馬車なら(たぶんメーリンク家なら、おかかえの)御者がいるはずで、怪しい外国人の手を借りずとも、急病の場合、大急ぎで帰宅するなり、近くの知り合いの家にかけこむなり、するのが自然と思います。

私の最初の漠然としたイメージでは、身分は高いが今は没落して貧乏な貴族のお嬢さんが、何か用事があって(お父様がやむ終えずした借金を返す金策に走る、とか)、人目をはばかりながら夜道を歩いていたところ・・・・という感じだったのですが。
なんか、絵では、マッチ売りの少女か赤頭巾ちゃんのようですし。

さて、実際にはメーリンク家のマレーネ姫が、思音に助けられているわけで、なぜそんなことになったのか、考えてみました。

もちろん、マレーネ嬢は、ちゃんとメーリンク家の自家用馬車に乗り、信頼できる付き添いとして家庭教師か、小間使いかを同伴していたのです。
ところが、その夜、およばれしたお宅で食べた物が悪かった。出入りの業者が持ち込んだ食材に不備があって、集団食中毒発生。 帰途につく途中で、マレーネだけでなく、お相伴した付き添いと、訪問宅でふるまいを受けた御者も気分が悪くなって、立ち往生。
むしろ、上品に小食なお嬢様よりも、お腹いっぱいに食べた庶民出身の使用人たちの症状の方が重かった。 まだしも動けるマレーネ姫がけなげにも助けを求めて馬車を降りた所へ、思音氏登場。 動けない御者の代わりに手綱をとって、馬車を御し、一行をメーリンク邸へ送り届けましたとさ。(見てたんかい? >水玉)

食中毒などと、どこから思いついたって?
だって、DOZI様の絵では、マレーネさん、お腹を押さえている…。
「おつきの人達」はいるんだけど省略されて、描かれていないだけ。

ちょっとした妄想でした。

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(67) 校名の由来
名前:水玉みかん    日付: 7月 3日(木)11時42分57秒

ちょっと気になったこと。

「持堂院」という校名の由来は、なにかあるのでしょうか。 どこかで言及されていましたでしょうか?

或いは、東京方面にお住まいの方なら、それ、と思い当たるような地名かなにかがあるのでしょうか?

『摩利と新吾』に登場する他の学校名。

姫花や、額田さまの、「女子修学院」は、京都の修学院離宮からかと思いましたけど、「学習院」をひっくり返したのだったりして。

ライバル校の「不知火高校」は、白鳥騎士の祖父が創立者らしいですから、「しらとり」→「しらぬひ」の「しら」つながりか?
不知火は白縫(しらぬい)に通じますので、「白」つながりか?
辞書によれば、不知火は、“九州八代湾の海上に夏になると現れる無数の火”とありますから、白鳥家は九州の出身なのかもしれません。

ついでに『あ〜ら、わが殿』の「なでしこ女学院」これは、もちろん、“大和なでしこ”からの命名でしょう。

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(68) 摩利の和服姿
名前:水玉みかん    日付: 7月 6日(日)15時41分32秒

雪』のラスト近く、ささめの仕立てたかすりを着て、摩利は思います。

「着物はこれしかきない」

それなのに、『忍ぶれど』のおばあさんの家で泊まった時、お風呂上りに着物を着せてもらってる。
「孫はおばあちゃんの言うことは絶対なのよ」というおばあさんパワーに押しきられたか?(さすが、元大名家の姫君のかんろく)

まあ、そんなのはささいなこと。
私がひっかかったのは、『雪』のもっと前の部分。
「着物おきらいなのですか」というささめの問いへの答え
「(略)…縫ってくれる人もいないからなんとなくね」

え?
縫ってくれる人、いない筈ないでしょう?
ばあやさんとか、新吾の母とか。
現に新吾の母は、摩利のお泊まり用に新吾とおそろいのネルの寝巻きをぬったということですから、ひとえだって、あわせだって、摩利が着るのなら、何枚でも縫ってくれたでしょう。

「おきらいなのですか」と聞かれて、「いや…べつに」と答える摩利のかげりのある表情を見て、私は「縫ってくれる人もいない」というのは嘘だと思いました。

着物を着ない本当の理由は別にある。(たぶん)

それは、はなゆめコミックス5巻の終わりの方に出てきて「やっぱり日本人は黒髪黒い目が一番よね」と言ったいやみなおばさまのせいです。(きっと)
摩利が、新吾とおそろいで作ってもらった着物をごきげんで着ていたら、「やっぱり着物は黒髪黒い目でないと似合わないわね」というような事を言われて、それがすっかりトラウマになってしまったのです。(本当か?)
お洒落でプライドの高い摩利が「一生着物なんか着るかーっ!」と誓っても無理無いでしょう。

だから、その辺の経緯を知っているばあやさんや、新吾の母は、摩利のために着物を仕立てようとはしないわけです。
だって、本人が「着ない」って決意しているわけですから。 もしかしたら、“おそろいのネルの寝巻き”も、おそろいなのはネルの生地だけで、摩利のはパジャマ型かも。 (『忍ぶれど』で新吾の家に泊まった時は、衿に結び紐の付いたパジャマらしきものを着てますね。)

着物が苦手な本当の理由は、屈辱の記憶につながるので、めったなことでは口に出したくないのだと思われます。
ささめの問いへの答えが、そんな筈はないだろうとつっこみたくなるような苦しい言い訳になってしまったのはそのためでしょう。

もちろん、薄幸の少女ささめの精一杯の心づくしを無にすることなく、苦手の着物に袖を通したのは、摩利のやさしさです。
これを唯一の例外として…、
と思ったのに、2年後にはおばあさんの心づくしにも負けちゃうのね

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(69) タンゴ?ワルツ?
名前:つばるみ    日付: 7月 8日(火)22時56分57秒

ゆりあ様、皆様はじめまして

「摩利と新吾」読者歴1ヶ月という新参者ですが、書き込みをさせていただきます。
だいぶ以前、まりりん様がこのぺージにて摩利と新吾がパリの夜会で初めて踊ったのは、
ワルツ?それともタンゴと書き込みをなさっていましたが、私なりの考察(?)というか、意見を述べさせていただきます。
 確かに、あの初めての舞踏会で新吾は、「ダンスのパートナーなしでは」と言われた後に、「いえ、せっかくのワルツですから1曲」と答えて摩利とダンスを踊っています。
 数年後、摩利は夜会で聴いた曲から新吾と踊ったのはタンゴと回想していますが、はたして彼らがあの時踊ったのは何だったのでしょうか?

 欧州へ向かう船上で、新吾が摩利にダンスを教わっているシーンで摩利は「ズンタッタ、ズンタッタ」とか「ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー」といいながらレッスンをしています。これは、明らかに3拍子のワルツを教えてもらったのではと、考えられます。(タンゴは4拍子だし)
 ただ、長い船旅(半月ぐらい?)他の種類のダンスも摩利は新吾に教えたかもしれません。特に、4拍子のタンゴは3拍子のワルツに比べ、日本人がのりやすいリズムではあります。案外新吾は、初めての舞踏会の時点でいくつかダンスをマスターしていたのではないかと、私は考えます。

 また、舞踏会で二人が踊っている姿を見ると、右ページのコマではワルツのポーズの様に見えますが左ページのコマでは、タンゴを踊る姿のようにも見えます。
 つまり、舞踏会の中で、新吾は「1曲‥」と言っていますが、結局1曲だけにならず何曲も(ワルツもタンゴも)二人は踊っていたのではないでしょうか。大胆で美しい二人の姿にあっけにとられる他の人々を尻目に。(すごく痛快ですよね)
 だから、摩利はその時踊った曲を耳にすると(それがたまたまタンゴだった)「ああ新吾と一緒に踊った」になるわけだろうと私は推察いたします。

 ただ、上記にのべた意見のほかに、みなさまがお読みになったら、苦笑あるいはお怒りに(?)なるようなことも考えていたことも、以下に書いておきます。

 1 新吾は、曲の区別がつかず、タンゴが流れているのにワルツと言ってしまっ
   た。
    いやあ、踊りを摩利に教わった時点でこれはないなと思ったのですが。

 2 摩利が記憶違いで、ワルツを踊ったのにタンゴと思ってしまっていた。
    頭脳明晰な摩利が大事な思い出を間違えるはずないですよね。

 この、二つの意見は笑ってお許しください。

 あくまでも、新参者の意見ですので、皆様方にはまた違うご見解があることと思いますがいかがでしょうか? 

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(70) この掲示板削除まで、あと18日
名前:ゆりあ@管理人    日付: 7月 9日(水)22時26分45秒

になりました。過ぎてしまうとあっという間で、まさに一期は夢よという感じです。

>つばるみさま
 はじめまして。
 このたびは楽しい考察を頂きましてありがとうございます。

 あらDOZIは、愛があればDOZI歴不問です。この掲示板が設置されている間に出会えたのもなにかのご縁と思います。
 ダンスの他にも、もつばるみさまのお心に浮かぶことや、ご贔屓のキャラへの想いや、お気に入りの台詞など、ぜひともこの機会にご披露くださいませ。楽しみにお待ちしています。
 私は作品をお読みになる方の数だけ考察はあると思うので、この掲示板にはご自由にお考えを書いて頂ければと思います。

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