通奏低音

(6)再 会

 「ドクトル・インナミだな」と摩利。
「とうさまが伯林で、盛大に新吾のお祝いするって張り切って待っているんだ。」
 学生時代、6年近くを過ごしたローザンヌの思音の別荘で、摩利と新吾は1年ぶりに再会した。 昨年、1935年の10月は紫乃の13回忌の法要が東京にある安曇家の菩提寺で営まれ、 持堂院の関係者一同がうち揃って出席した。摩利もあらかじめ日程を合わせて東京での仕事を 入れていたのだ。

 「照れるではないか。それにしても忙しい摩利が授与式に立ち会ってくれるなんて、感謝するぞ。 実は、おれの摩利に一番見て欲しいと思っていたのだ。」
「はん、おれもスイスには大事な用があってね。」
 もちろん、摩利にしてみれば用事があろうとなかろうと見逃したくない新吾の晴れ姿だ。 しかし、もう、数年前から宝石に変えておいた鷹塔家とメーリンク家の資産をスイスに 持ち出す口実を探していたのも事実だった。この作業が完了したら思音と摩利は、 ひとまず日本に戻る段取りになっている。

 「おれは、新吾の結婚式には出られなかったからなぁ…」
「それは、メーリンクのおばあさまが危篤だったのだから仕方がないではないか。 おれは気にしていないぞ。」
事情が事情だっただけに新吾が摩利を責める気持ちなどないことは良くわかっている。 けれども、摩利は自分の目で新吾が結婚する姿を見ずに済んだ安堵感を否定しきれない。 同じ晴れ姿でありながら見たくないものもあるんだと、摩利は何となく後ろめたさを感じる。

 思音と摩利が伯林を拠点に精力的に事業の生き残り対策を講じて、シュテファンへの引継ぎを 図っているうちに欧州の短い夏は終わっていた。
 その8月、新吾は日本で、独逸からのオリンピックのラジオ中継を聞いたという。 女子の水泳で前畑選手が優勝した放送だ。
「独逸にいたおれはそんな暇なかったのにな。」
「日本ではその話題で持ちきりだったのだ。」

 スイスでの授与式までの数日間、新吾は大学時代に世話になった教授やかつての研究仲間に挨拶回り、 摩利は銀行の貸し金庫の手配など昼間は2人とも用事に追われ、夜はそれぞれの準備作業と、 忙しい毎日だった。
 それでも、積もる話をそのままにしておくはずもなく、明け方近くまで話し込んでは いつの間にか寝入ってしまう2人だった。
 再会の夜、摩利は新吾からささめちゃんの坊やと一二三ちゃんの坊やが仲睦まじく遊んでいる 写真を渡された。4月に帰国してすぐ、ささめは摩利の手紙を届けに新吾を訪ねた。 その時に新吾がとったものだという。
 新吾は自宅を買い戻したのと前後して一二三と結婚したが、子どもが産まれたのは摩利より数ヶ月で あるが遅かった。
「おれたちは自分たちを一生もののお神酒徳利って言ってるけど、三代目ができたな」
「ああ、そうだなぁ」
 妻子の話になるとどうしても言葉が少なくなる摩利を見て取って、新吾が話題を変える。
「おじさまはお元気か? 今回の渡欧の前に夢殿先輩に挨拶に行った時に、おじさまが事業の拠点を一時的にでも日本に移されるに あたって、力になれることがあればなんでも言って欲しいとことづかっているのだ。」
今でも陰になり日向になりに力になってくれる夢殿の名前を聞くと、摩利は嬉しそうにうなずいた。
 日本や亜細亜に留まらず世界の20年先を見渡せてしまう夢殿だ。 軍部が台頭する中、政界という伏魔殿に身を置きながら、保身という文字など持ち合わせる はずもなく己の信念を貫く性格もわかっている。その身に危険が迫るような事にならなければ良いがと、 摩利も常に夢殿のことは気に掛けている。
「情の強いあなたが 二番目に好きですよ」
 博士号授与式の朝、部屋に現われた新吾の第一礼装姿に、摩利は浮立つ心を押さえられなかった。
「似合うぞ、新吾。おまえはかわらないなぁ。」
「うむ、今日は授与式のあと記念講演をしなければならないかならな。摩利だって相変わらずきれいだぞ。 これ、記念講演の原稿の写しなのだが、見ておいてくれるか? ゆうべのうちに摩利のために タイプしておいたのだ。」
 摩利は正装の胸につけた生花のほのかに甘い香を楽しみながら、玄関ホールの肱掛椅子で 几帳面に新吾が打ったタイプの文字を追った。医学は専門外の摩利だから、いきなり講演を 聞いてもわからないだろうという新吾の配慮だが、
「読んでみてもわかるのは8割くらいだな。」
見たこともない専門用語の連続に苦笑した。いや、それは、摩利に読ませるために事細かに 注釈を付けながらタイプライターに向かう新吾の姿を想像しては、心が高鳴る自分の埋火(うずみび) の熱さに 改めてあきれての苦笑かもしれない。
 摩利の前にお茶を置いたロッテンマイヤ夫人が電話の音に急いで戻っていった。 と、思う間もなく、摩利のもとに駆け戻ってきた。
 鷹塔伯爵が倒れたという知らせだった。
(2000. 1.3 up)

(5)定 期 便 / (7)埋 火

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