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◆◆ 足立桃子(ピアニスト&コレぺティトゥア)インタビュー3◆◆

コレぺティトゥアと指揮者や歌手との関係

 コレぺティトゥアと指揮者とは、どのような関係にあるのでしょうか。また、歌手との関係にも、いろいろなケースがあると思いますが。
 本番は指揮者が全責任を負うわけですから、コレぺティトゥアと歌手が練習したやり方と、指揮者の方針とが違ったら、 指揮者の意向が優先します。もちろん、意見を求められれば、コーチとしての立場から助言はします。

 歌手との間にも、どちらが上、といった力関係はありません。本番での歌手の歌い方が、 一緒に練習したことと変わってしまうこともありますが、最終的には、ご本人の好みや音楽性を大切にしたいと思っています。 もっとも、私のコーチした歌手は、だいたい忠実にやってくれていますが。

 コレぺティトゥアから指揮者になった人で有名な人は。また、その逆はありますか。
 ドイツの劇場では、伝統的にコレぺティトゥアからシュトゥーディエン・ライター (劇場の全レパートリーを歌手に教える最高責任者)、そしてカペルマイスター、音楽監督と昇っていくコースがあります。 サヴァリッシュ、準メルクル、ウルフ・シルマーといった人たちは、みんなこういった経験を積んで指揮者となっています。
 大野和士さんもそのパターンで、時間さえあれば、全部自分でピアノを弾きながら、歌手のコーチをなさってしまいます。

 話を伺っていると、大野和士さんはコレぺティトゥアと同様のことをやっているように思えます。 神奈川県立音楽堂のレクチャーコンサートのシリーズは、コレぺティトゥアと歌手の稽古を公開しているようなものではないでしょうか。
 それでも大野和士の公演でコレぺティトゥアが必要な理由はなんでしょうか。
 膨大なオペラ制作の全てを、ひとりの指揮者が行うことは実際不可能です。オペラ制作は分業制でないとうまくいきません。
 伊原直子さんから伺いましたところ、大野和士さんが個人稽古まで全部引き受けた「サムソンとダリラ」では、 4か月かかりきりになったそうですが、多忙になられた今では、とてもそんなぜいたくなことはできません。
 優秀なコレぺティトゥアが必要となる所以です。

 それでは、コレぺティトゥアの経験が無い人が指揮者になったら、どうなるのでしょうか。 コレぺティトゥアと同様のことができない指揮者が、オペラを振ることはできるのでしょうか。
 コレぺティトゥアの仕事を理解していない人がオペラを指揮するのは、本当の意味では無理です。 公演の質に直接響きます。できればやめておいた方が良いかも….。

 最近は、コレぺティトゥアから指揮者に上がるコース以外にも、コンクールで良い成績を取ってすぐに指揮者になる人も多くなってきました。 そうやってオーケストラ演奏の分野だけ実績を積んだ人にも、いつしかメジャー・レーベルが付いて、劇場で振る前にオペラ作品を録音したり、いきなり大劇場の指揮台に呼ばれたりするケースも出てくるわけです。

 でも、そういう指揮者が振ったオペラの録音や舞台は、わかる人が聴けばどこか不自然な感じがつきまといます。 その類のものをオペラとして普通に受け入れてしまう主催者、聴衆側にも問題があるかも知れません。

 準メルクルが新国立劇場の「指輪」で副指揮者を選ぶときに提示した条件のひとつに 「ピアノが弾けること」というのがありました。パッパーノもピアノをバリバリ弾いていました。 当たり前と言えば当たり前のことです。 指揮者がコレぺティになる、というよりも、優れた指揮者はコレぺティを兼務できてしまうのです。 もちろん時間的な余裕がある限りですが。


コレぺティトゥアの将来、オペラの将来、そして…

 コレぺティトゥアを必要としない歌手やオペラ作品というのはあるのでしょうか。 コンサート形式のオペラ上演や、歌手のリサイタルでもコレぺティトゥアは必要なのですか。
 オペラという表現形式がある限り、コレぺティトゥアの役割は消えないと思います。それはコンサート形式の上演でも必要です。
 歌曲のリサイタルであっても、歌曲とオペラは表裏一体ですし、文化的、社会的背景は共通ですから、コレぺティトゥアの役割は重要です。

 歌手の側から見たらどうでしょうか。コレぺティトゥアの存在は、歌手が成長していくうえで、どのような意義があるのでしょうか。 例えば、ヴォーカル・トレーナーの役割と比較して。
 まず最初にヴォィス・トレーナーありきですが、それだけでは歌手としての能力を発揮することはできません。 ソルフェージュ能力を磨くだけでなく、それに音楽的、文学的な知性面を入れていくことが音楽にとっては必要です。 それはリートでも同じです。

 きちんとした理解に則った歌い方(例えば、言葉の内容、オケの編成などを理解していれば、全部ベタで歌わなくとも、 いい意味での「抜きどころ」が見つかり、ラクになります。)、および自分の声に合った仕事の受け方を守ってゆけば、 すぐに歌い方が崩れて歌手生命を縮めてしまう、ということはありません。
 ですから、歌い方の指導のほかに、「こんな役が来たけれど受けるべきかどうか。」といった相談に乗ったり、 日常のウサを聞いてあげたりすることも、コレぺティトゥアの重要な仕事です。

 日本の指揮者が世界中で活躍するようになりました。 しかし、なぜ大野和士のようにオペラを理解し、その上でコンサート活動も行う指揮者が現れないのでしょうか。
 音楽の修練、言葉の理解、文学の素養、さらには政治社会や文化への深い洞察、全ての面に原因があります。
 なぜか日本では、「オペラ指揮者」というジャンル分けをして、オーケストラ・ピットの中でしか真価を発揮できない、 交通整理の上手な職人であるかのようにみなす人がいます。コレぺティトゥアを「ピアニストのなり損ない」とみなすのと同様、 それは完全に間違っています。

 例えば、大野和士さんも、「モーツァルトの交響曲やソナタを演奏するとき『フィガロの結婚』を理解しないで、 どうしてまともな演奏ができると思うのか」とおっしゃっています。 「フィガロ」を生んだ、フランス革命当時の文化状況や、モーツァルトの音楽的、劇的な語法に対する十分な理解があって、 はじめて彼の交響曲やソナタを演奏することができるのです。
 良い例がウィーン・フィルです。協奏曲をやってもソロとの掛け合いが上手くできます。 協奏曲は「伴奏」ではなく、「共演」なのです。交響曲をやってもパート同士の有機的な掛け合いが上手いのです。 もちろん、楽員のひとりひとりもソリストとしてたいへん優れていることは言うまでもありません。

 それを、オペラを振ったことのない指揮者が、「そろそろオペラでも手がけてみようか」と言って、簡単にできるものではないです。 全ての音楽の根底には、音楽面のみならず文学面、さらには文化的、社会的な背景があり、ピアニスティックな技量も含めて、 それらを有機的に総合していく高度な知的作業がないと、本当の音楽はできません。 そのような深いアプローチをしてゆく方がまだまだ少ないことが原因でしょう。

 大野和士の後に続く、日本人の若手への期待を語ってください!
 東京フィルの「オペラ・コンチェルタンテ・シリーズ」を通じて、大野和士さんが日本や世界に発したメッセージを、 誰が受け継いでいるのでしょうか。
 そのメッセージとは、オペラ制作の過程という技術のことだけでなく、20世紀末の10年間に、 20世紀の作品を系統立てて取り上げた視点、社会問題の提起も含めてのことです。

 音楽に対するアプローチを、けっして表面だけに終わらせないことは、けっして他の指揮者に対してだけでなく、歌手にも コレぺティトゥアにも、またオーケストラや劇場の運営スタッフにも、そして聴衆ひとりひとりにも問われていることではないでしょうか?

 最後に、ピアニストとしての足立さんのモットーを聞かせていただけますか
 「ピアニストとして」だけでなく全般的なお話になってしまいますが、理想は「きれいな心と健康な体」です。 実行が伴っているかどうかは別として(!?)
 とくに、演奏家として活動する場合は、内面が音にすぐ出てしまいますから、人を恨んだり、傷つけたり、けなしたりすれば、 すぐ音色が濁ってきてしまうと私は考えています。音色だけでなく、人間性全体に関わることですが。

 また、スポーツは演奏の一部とみなして、水泳、エアロビに通っていますが、アトは気持がすっきりするだけでなく、 脱力のおかげでほんとうに弾くのがラクになります。戦争などで苦境にある人々、自然や動物にも優しくありたいですね。

 音楽以外に話が及んだついでに、公演や練習が終わった後の、大野和士さんの素顔を教えてください
 音楽作りは手を抜かずきっちりなさる一方で、仕事が終わるとパーッと「飲みに行くぞっ!」と皆を誘ってくれる気さくさも、 オペラ制作にかかわる人たちの団結力を高めていたことは確実です。
 利害関係を考えず、まるで部活のノリで先輩についてゆく・・・みたいな感覚になれたことがとても楽しかったので、 公私どちらの場面においても、すぐれたリーダーシップをお持ちの方だと思います。

(完)

(2003.5.1 up)

足立桃子
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