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◆◆ コンサートレビュー 11 ◆◆


エレクトラ (2002年9月17日 ベルギー王立モネ劇場)
ル・ソワール紙 及び ラ・リーブル・ベルジック紙に掲載された公演批評(和訳)



大野和士、ソフォクレスとフロイトに囲まれ
デビューをスタンディング・オベーションで飾る


 《ル・ソワール紙》 2002年9月19日付け ミッシェル・デブロック

リヒャルト・シュトラウスのオペラ『エレクトラ』でモネ劇場のシーズン開幕

 パッパーノ後のモネ劇場はきわめて幸先のよいスタートを切った。大野和士は、火曜の夜、モネ劇場の音楽監督の任期を、目もくらむばかりに超絶的な『エレクトラ』で開始し、上演の終わりに、これ以上はないくらい熱狂的なスタンディング・オベーションを受けた。このプレミエのエネルギッシュで、同時に洗練された演奏から判断すると、日本人指揮者は、すでにオーケストラの信頼と熱意とを獲得したようだ。

 大規模といえば、『エレクトラ』のスコアは、多くの箇所で大規模だが、また精緻な管弦楽法を要求する箇所にもあふれている。大野は、こうした箇所に、不断の注意力を注いで演奏する。大野の表現は、前任者パッパーノに比べ、どこもかしこも熱狂的に振るといういきかたではない。大野は、音楽の色彩の細部や、微妙なニュアンスに細心の注意を払うが、一方で、全体の音響に対する議論の余地のない才能を持っている。彼は同様に、モネのオーケストラを全く胸のすくように奥深い響きでならすが、絶えず注意深く、歌手の声を支えることを忘れないのだ。

 フランスの(訳注参照)ソプラノ、イゾルデ・エルヒレップは、毅然とした態度がかもしだす、ほれぼれさせるような存在感と、人を魅了する響きという優れた資質をもっている。 彼女の声はカミソリの刃のような切れ味があるが、しかし、いかにも残念なことに、それがいつもというわけではなかった。 作品のもっとも高揚した瞬間に、ここ一つの輝きがなかったことが惜しまれる。
 (訳注:フランス人というのはソ・ワール紙の誤りで、彼女はドイツ人)
 シャルロット・マルジオーノは、声楽的には素晴らしいクリゾーテミスだ(ただ、舞台姿は必ずしも、説得的であるとはいえない)。
 スウェーデンのメゾ・ソプラノ、イングリッド・トビアッソンは、素晴らしくコントロールされた声で、彼女の役を歌い、モネ劇場に初めて、人間性のある衝撃的なクリテムネストラをもたらした。
 例えば、完璧なエギストを歌ったイアン・カレーなど、「端役」も好調で、キャスティングのバランスのよいまとまりを確かなものにしていた。
 オレストは、作品終末部の鍵をにぎる登場人物であるが、アルバート・ドーメンのオレストは、当初、違和感をあたえた。彼のブロンズのように重厚な声は、まだ年若い英雄よりも、ヴォータンや騎士長を思い起こさせるように思われたからだ。 いや、むしろ、彼が提示している大理石のように冷ややかなイメージが呼び起こすのはアガメムノンであり、この意味で、エレクトラがおこなう暗殺された父と、復讐を行う弟との同一視を強調しようという演出家の意図を補強しているといえるだろう。

 ライン・オペラとの共同製作でつくられたこの上演によって、我々は、初めて、シュテファン・ブラウンシュヴァイクの、一切の妥協を排した簡素な演出に接することになった。華麗に過ぎるスコアやリブレットのもたらす一切の冗漫さをさけて、彼は、登場人物の内面のさまざまな緊張や欲動を表現する、あらゆる作為を排した暴力的な舞台を我々に提供する。我々は、古代の悲劇の中にいるのではなく、たしかに、20世紀の初頭の時点にいるのだ。
 衣装はクリムトを参考にしているように思われるし、フロイトの精神分析が、ドラマの進行の背景となっている。

 息詰まるような閉めきった室内で、すべては現実と、幻影の中間で展開するが、その室内も二つの喚起的なイメージに帰着する。一つは、エレクトラの浴室であり(そこには、父アガメムノンが暗殺された浴槽と対の浴槽が君臨している)、もう一つはクリテムネストラの寝室だ(寝乱れたベッドがおかれているが、それはクリテムネストラの悪夢の舞台だ)。

 それなら、何故、若干テクストが「カット」された版を選んだのだろう? この版は、リブレットから、エレクトラのきわめて重要な告白が削除されているのだ。
 殺された父親のために彼女が犠牲にした「甘美なおののき」を思い浮かべて、彼女は言う。
 「あなたはご存じですか。わたしが肉の喜びを感じた時、彼のため息や、すすり泣きが私のベッドにひしめきながらやってきました。死者は嫉妬深いのです。彼は私に夫をもつことに対する憎しみを送ってよこしました」。
 この作品が、抑圧された欲望の劇だというなら、エレクトラのこれらの言葉は、彼女と彼女の父親を、死を越えて結びつけている曖昧な関係、その後、彼女が彼女の弟にふり向ける曖昧な関係に解明の光をあてるものといえるだろう。我々のオペラの舞台に上げるには、あまりにも「刺激的」だというわけだろうか。




大野、『エレクトラ』で勝利

  《ラ・リーブル・ベルジック紙》 2002年9月19日付け
  マルティヌ・デュモン=メルジェー
新しい正指揮者、モネ劇場のシーズンを開幕
シュテファン・ブラウンシュヴァイクの理知的で強力な演出
タイトル・ロールのイゾルデ・エルヒレップは期待はずれ

 ライン・オペラ(ストラスブール)との共同製作による、シュトラウスの『エレクトラ』が本日、ブリュッセルにお目見えした。ストラスブールではすでに春に上演されている。本日の上演をもって、大野和士はモネ劇場のトップの座に正式に着任したことになる。

 この日、なんといっても最も素晴らしかったのは、指揮だった。アントニオ・パッパーノは、均一な音色と動きにすぐれていたが、大野和士の音楽へのアプローチは明らかにより分析的だ。大野は自分の嗜好をはっきりと打ち出した。透明さ、音の重層性へのこだわり、細部を重視するが音の大きな流れは絶対に失わない、といったところが彼の特質だ。

 オーケストラは、新しいリズムで呼吸し、以前にもまして「踊る」ようなうねりがでてきたように感じられる。まさにそれはシュトラウスのスタイルだ。オケは、ぎらぎらとする輝きではなく、(ニュアンスに富んだ)微妙な光の明滅を思わせる響きを獲得したが、それでも、先鋭かつ、豊穣な前奏曲の和音が示すとおり、つねに華々しさを失うことはない。舞台が始まると、大野は、ほとんど数学的といってもよいテクニックの切れ味を、鋭敏なドラマへの配慮と、歌(と歌い手)に対する天性の勘とを結びつける。『エレクトラ』は、オケと声とを衝突させてしまうこともしばしばだが、この日の演奏は、オケの力をそぐことなく、歌のテクストが主役の座を占めていた。

 最後に、この指揮者が、シュトラウスから数え切れないほどの新しい音響を引き出し?観客に啓示して?くれたことに、敬意をしめしておこう。これらの発見は、思いがけない喜びを引き起こし、「美とはつねに新しいものだ」という格言の正しさを改めて納得させてくれた。

 フランス人、シュテファン・ブラウンシュヴァイクの演出は、指揮と齟齬をきたすことなく、厳粛だが、きわめて表現豊かなステージを作り上げるという立場を取るものだった。

 ・血と死
 いくつかの白いアクセサリー、?? ベッド、椅子、祭儀の道具のような浴槽?? が点々とおかれている他は、赤と黒、血と死の支配する、視覚的には簡素きわまりない舞台は、ドラマの進行に対し、ほとんど抽象的な環境を提供する。
 嫌悪の的となっているこの城塞の内部と外部の区別が、ドラマの進行にしたがい、一層、峻厳に強調されていく。ブラウンシュヴァイクの発想の中心軸に据えられているのは、シュトラウスの時代に流行したフロイトの影響を念頭においてのことであろうが、クリテムネストラの夢だ。彼女の夢の中では、暗殺された夫アガメムノンのイメージが、復讐を誓う息子のオレストのイメージと混じり合っている。父と子とがドン・ジョヴァンニの「騎士長」のような無表情で畏怖をかき立てる同じ一人の人物のなかにおさまっているのだ。

 オレストはしたがって、罪業、近親相姦、暴力をもたらした人物、一家の不幸(この不幸のために娘は神々の崇拝に向かうのだが)の原因となった人物、解きほぐしがたく紛糾したエレクトラの運命をあらかじめ予告する人物である恐ろしいアガメムノンの化身なのだ。おそらくこうした理由から、オレストの役は、バリトンというより、はるかにバスに近く、黒く強力な声の持ち主である、アルバート・ドーメンに任された。彼は、父の支持者たちを束ねる共通の特徴である重たいコートを着ている。一方、宮殿の住人たちは、無意識の気まぐれと、放蕩を表すけばけばしく飾り立てたチュニックを着ている。

 クリテムネストラを歌ったスウェーデンのメゾ、イングリッド・トビアッソンは安定していて、存在感がある。クリゾーテミスを歌った、シャルロッテ・マルジオーノは、声と音楽性は素晴らしいが、容姿は役に対して説得性に欠け、優れたテナー、イアン・カレーのそばでは影が薄い。

 スーザン・バロックと交代で、タイトル・ロールを歌う美しいイゾルデ・エルヒレップはこの恐るべき乙女の強さや、火のような内面性を二つながら持ちあわせていないように思われる。初日の舞台では、しばしば、技術と声域の限界を超えてしまい、決定的な箇所、とりわけ、オレストと出会うところで、音をはずす場面がみられた。それによって、そこから始まるオーケストラの和声的な展開まで影響を受けることとなり、フラストレーションが残った。


翻訳 : 大野英士
1956年東京生まれ
湘南高校を経て、東京大学卒、早稲田大学大学院満期退学、パリ第7大学大学院修了。
文学博士(ドクトール・エス・レトル)。専攻はフランス文学。
フランス19世紀末のデカダンス作家ユイスマンスの日本では数少ない専門家として知られる。
現在早稲田大学非常勤講師。
また、翻訳家・ライターとして、文学だけに限らず多方面で翻訳・執筆活動を展開。

指揮者大野和士の実兄。(メールはこちらへ)
(2002.9.20 up)



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