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◆◆ コンサートレビュー 12 ◆◆


エレクトラ (2002年9月17日 ベルギー王立モネ劇場)
南ドイツ新聞に掲載された公演批評(和訳)


卓越した音楽家
ベルギーの奇跡(ヴンダー):ブリュッセルの新音楽監督、大野和士


 2002年9月21日付け ミハエル・シュトリュック・シュローエン

 舞台空間が、魂の鏡だとするなら、この『エレクトラ』の無意識には、加工されない生のままの過去に由来するいかなる汚れやがらくたも存在しないということになるだろう。演出家・舞台装置家、シュテファン・ブラウンシュヴァイクが、ブリュッセルのオペラ・ハウスで、アトレウス家の娘に、彼女の生活空間として与えたこの浴室は、見事に整頓され、念入りに磨き立てられている。塵一つない床、ヴォルプスヴェーデ・ホワイトの簡素な椅子、―― 入浴中に虐殺された亡父アガメムノンに捧げられた記念碑である ―― ぴかぴかに磨かれた浴槽。こうした病院の中のような雰囲気のなかでは、エレクトラも古代の怒れる女、人からさげすまれる卑屈な存在ではなく、彼女の近親愛にもとづく復讐計画を、軍事参謀のような素っ気ない態度で実行にうつす、知的で、打算的な女となる。
 イゾルデ・エルヒレップは、軍隊調のコートを身にまとい、髪をつよく後ろにひっつめ、このようなクールな復讐の天使という役どころを完全に体現した。―― 彼女のソプラノには高度にドラマティックな迫力や、輝きのある最高音は不足していたにせよ。

 リヒャルト・シュトラウス『エレクトラ』を三人の女性のノイローゼを題材とした現代の実験劇風の作品に仕立てる。特異な才能をもつ演出家の挑戦意欲をかき立てたのは、このようなスリリングな初期条件だったのだろう。というのも、ストラスブールの国立劇場の常任演出部長を務めるブラウンシュヴァイクは、エルヒネップと彼女の二人のライバルを舞台上でどう見せるかに、欣喜として熱中しているからだ。(この舞台では、男性陣は、明らかにほんの二次的な役まわりしか演じていない。)しかし、その結果、幕が開いた当初は、何がおこるかという期待でふくらまされた興味や緊張も、じきにしぼんでしまうのである。だから、終幕、エレクトラが、浴槽からアガメムノンの血を身体に塗りたくり、恍惚として踊りはじめるや、演出は、フロイト流の夢判断が鍵となる後期市民社会の圏域から、古色蒼然とした古代へと逆戻りしてしまうのだ。結局、この舞台はがらくたのつまったお定まりの『エレクトラ』の最近の失敗作の一つでしかない。

・熱情的かつ分析的
 しかし、幸いなことに、ブリュッセルのシーズン開幕を告げるこの上演に関して、まだすべてが語られたわけではない。というのも、オーケストラ・ピットで、新しい音楽監督が始めてタクトをとっていたからだ。彼は、すでに、当夜の演奏だけでも、300年の伝統を誇るモネ劇場の年鑑にその名を記されてもしかるべきだといえよう。もちろん、大野和士がこうした演奏ができたのも、前任者アントニオ・パッパーノの仕事があったからだ。パッパーノは過去10年の間に、劇場のオーケストラに、広大なレパートリーと、注目に値する水準をもたらした。しかし、今日、大野は、パッパーノの熱情的なスタイルに、さらに、精妙きわまりない音色に対する感覚と、スコアの透徹した分析を加えてみせた。それは、まさに息をも呑ませる素晴らしい出来映えだった。
 時に、ソロバイオリンによって奏でられる、ウィーン世紀末のまばゆい黄金の輝きが、エレクトラの歌手陣の魔性に重なるかとおもえば、また、クラリネットによる、大蛇が這うような低音のラインが、広がっていく。いつわりの静寂のあとには、神経的な爆発とテンポの昂進が続く。これらすべてが、統率と激情とを理想的な仕方で統一する、一本の手によって紡ぎ出されてくるのだ。

 もっと静かな機会に、大野和士に、彼のこのような音楽家としてのあり方がどうして生まれたのかを尋ねてみると、そこには彼の家族環境が働いている、という答えが戻ってくるのが普通だ。
 大野は、コンピューター技術者の父と、茶道教授の母との間に1960年に生まれた。これによって、数学的な事象に対するセンスと、瞑想的な沈潜に向かう傾向とが、若年時からすでに確固として存在していたことがわかる。また、同時に、彼にとっては西洋文化とアジア文化との遭遇も必然的なものだった。高度に発達した経済国家である日本において、西洋文化とアジア文化の衝突は、まだアイデンティティーの問題を引き起こしているのである。そして、きわめて伝統的であった大野の家庭で、一座の間を抹茶茶碗が回されている間に、五歳の大野は、箸をもってベートーベンの「エロイカ」を指揮していた。

・新しいものの探求
 東京の国立の音楽学校で勉学を積んで以来、大野は、古典的なレパートリー、現代的なレパートリー両方を広げたいという意欲を失わなかった。
 タングルウッドでバーンスタインのマスター・クラスで学び、ミュンヘンのバイエルン州立劇場では、ヴォルフガング・サヴァリッシュとジュゼッペ・パタネーのもとで研修員として修行したことにより、西洋音楽は、彼の存在の一部分となった。
 彼は、9年間、東京フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者をつとめ、最近6年は、カールスルーエで音楽総監督(GMD)の職にあったが、カールスルーエでは、ワーグナーのほとんどすべてのオペラ作品を指揮し、ヴォルフガング・リームと親交を結んだ。(やり残したタンホイザーは、ブリュッセルの2年目のシーズンにかける予定だ。)

 「私は、できるだけ多くの新しい作品を発見し、同じプログラムを何度も指揮しないよう、自らに課してきました」と、大野は、過去を振り返って語る。「しかし、今は、特定の曲を何度も取り上げ、深めていくていく時期がやってきたように思います。」今後は、ブリュッセルのオペラ・コンサート指揮者として、大野はそうした機会を大いに利用していくことになるだろう。きたるコンサート・シーズンに、彼は、マーラー、モーツァルト、および彼の同国人、細川俊夫の音楽をプログラムにのせる。オペラの分野では、彼の前任者のラインの大部分を引き継ぐほか、ヴェルディとスラヴ系のレパートリーを付け加える予定だ。また、イタリアの作曲家ルカ・フランチェスコーニの『バラータ』を、アーヒム・フライヤーの演出で世界初演する。この日本人は、パッパーノが閑却していたモーツァルトのオペラも、取り上げていくとの意向だ。したがって、われわれは、熱狂的なモーツァルト・ファンだったリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』同様、情熱と精密さがちょうどよくミックスされた、素晴らしいモーツァルトが期待できるわけだ。


翻訳 : 大野英士
1956年東京生まれ
湘南高校を経て、東京大学卒、早稲田大学大学院満期退学、パリ第7大学大学院修了。
文学博士(ドクトール・エス・レトル)。専攻はフランス文学。
フランス19世紀末のデカダンス作家ユイスマンスの日本では数少ない専門家として知られる。
現在早稲田大学非常勤講師。
また、翻訳家・ライターとして、文学だけに限らず多方面で翻訳・執筆活動を展開。

指揮者大野和士の実兄。(メールはこちらへ)
(2002.9.27 up)



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