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◆◆ コンサートレビュー 14 ◆◆


大野さんのベルリン州立歌劇場デビューの模様をレポートしていただきました。

1.ベルリンシュターツオパー「サロメ」11月28日公演について
公演プログラムの表紙
公演プログラム
 実に思いがけず聞くことができた。 大野和士氏指揮のベルリン・シュターツオパーでのリヒャルト・シュトラウスの楽劇「サロメ」(2002年11月28日公演)である。 その知らせが入ったのは、公演の前日の午後のことであった。このサイトの管理人堀江氏からのEメールによってである。 私の仕事場が、ベルリンのこのオペラハウスの隣だということもありまずは訪ねてみた。 窓口で用件を伝えると、明日の指揮はヴァイグレだという。 しばしの問答の末、電話で問い合わせをしてくれてようやく納得されたが、練習はすでに終わっていた。 チケットを買いたい旨申し出ると、向こうも気まずかったのであろう、ならば、オーケストラのよく見える席で手頃な席はここだとチケットを手配してくれた。

 あとで、大野氏から聞いたのであるが、指揮の依頼があったのは2日前の26日。 その日の夜にベルリン入りし、27日の朝10時からの稽古に臨んだという。 どんなに急な場合でも、たいていは、歌手とのピアノでの練習で呼吸を合わせておいてからオーケストラを含む最後の稽古を行うそうだ。 今回は予定の指揮者の急の入院でその余裕すらなかったらしい。 稽古は、いうまでもなく大野氏一人が舞台を知らない状況で進められる。 練習での舞台の用意が十分でなかったことから、まずは「サロメダンス(七つのベールの踊り)」からはじめたそうであるが、結果的には、そこでのオーケストラとのコミュニケーションがよかったと述懐されていた。わずか3時間の稽古である。

 ところで、ベルリン・シュターツオパーのサロメは、今シーズンもっとも力を入れているプロダクションの一つであろう。 昨シーズン、日本公演も含めて精力的にこなしたワグナーのプログラムは2003年年明けのオランダ人、トリスタン、タンホイザーのみとなり、かわってリヒャルト・シュトラウスのプログラムが大きな柱になっている。シーズン幕開けのエレクトラ、バラの騎士に続くものであるが、とりわけ、このサロメは、演出が、ベルリンシュターツオパーの総監督ダニエル・バレンボイムと二人三脚でワグナー作品を多くを手がけ、昨シーズンをもってベルリン・コーミッシェオパーを惜しまれながら去ったハリー・クプファーの手によるもので、かつ、サロメにインガ・ニールセンを迎え、今やベルリン・シュターツオパーが世界に誇る主力歌手ファルク・シュトゥルックマンがヨカナーンを歌うことから、ファンの間での期待度は最も高いものである。 指揮のセバスティアン・ヴァイグレも悪くない。 日本での評価はあまり聞かれないように思えるが、バレンボイムの元で、着実に地歩を築いてきた人であり、1997年からベルリンシュターツカペレの専属指揮者として、とりわけ昨シーズンあたりから登場回数も含めてオーケストラと呼吸が合ってきている。奇しくも、大野氏のモネ劇場でのエレクトラ(9月28日)を聴く直前に、同じくエレクトラ(9月14日)をこの劇場で聴いたが、歌手陣も充実したなかなかの好演であった。



2.大野和士指揮/ハリー・クプファー演出/ベルリンシュターツオパー「サロメ」
 暗転のうちに幕が上がり、ほのかな月明かりのごとく照明が灯ると悲劇の幕開けである。冒頭のクラリネットの導入部は物語を予感させるいかにも不安げなものである。ここより繰り広げられるハリー・クプファーの舞台は、79年にプレミエにかかったものでそれほど新しいものではないが、工事現場に組まれた足場のような舞台装置は確かにクプファーのものであり、時代設定が紀元30年であるということはともかく、今やクプファーの亜流も含めた馴染みのものであり、展開されるドラマに集中する妨げになるものではない。

 ナラポートのシュテファン・リューガマーのよくとおる美しい声が曲に流れをつける。美しく妖艶な王女サロメへの押さえきれない思いの丈と苦悶の背景で音楽はすでにサロメの「匂い」を漂わせる。どこで鳴っているのだろうか。地の底から闇を引き裂く地響きのようなしかし輝かしい音。ファルク・シュトゥルックマンが歌うヨカナーンの予言者としての言葉である。波紋のような兵士の動き、相変わらず苦悶するナラポート、そしてサロメの登場である。

 赤をまとったサロメは、ヒステリックな狂気に満ちたそれではない。抑制のきいた、どこか愛くるしいしかし妖艶なサロメをインガ・ニールセンが演じる。用水溝のふたが開けられ、そこからは、あの声の主が重々しく登場する。神々しい。その容姿もさることながら音楽そしてその声がである。こんなヨカナーンを聴いたことがあったであろうか。いかなる欲望をも拒否する意思を感じる。拒絶されたサロメを残して、ヨカナーンは再び地中へ身を隠し、高鳴る心臓の鼓動が沈静するように舞台は正気に戻る。

 ヘロデとヘロディアスの登場である。妖気の余韻漂う舞台でヘロデは執拗にサロメを求める。神経質で、何かにおびえ、しかもいやらしいヘロデは名テナー、ライナー・ゴルトベルクが演じ、その妻ヘロディアスはウタ・プリエフが演じる。すでに1ヶ月前、「エレクトラ」のアエギスト、クリテムネストラ役でその実力は証明済みである。

 ヘロデの欲するところ神経をとがらせた小姓たちがこまごまと立ち回り、破滅へのお膳立てをしていく。演出に隙はない。再びヨカナーンの響き渡る声が人々を揺さぶる。無意味な議論に殺気立つユダヤ人とナザレ人は本当にうるさい。

 欲望をかなえる究極の報酬にサロメは破滅の序章へ踏み出すことになる。七つのベールの踊り。そこにいる全ての人の釘付けにされた視線の先にはサロメがいる。音楽がサロメをそそのかす。サロメに音楽がそそのかされる。緩急自在に、そして官能的に・・・・インガ・ニールセンに年齢はない。褒美を取らすヘロデの悦びは恐怖へとかわる。サロメが求めたものは、「ヨカナーンの首」。全ての人にその驚きは波動として伝わる。ヘロデが他のものを所望するよう問いかける。その答えを固唾をのんで見守る。しかし、問いそして答えを重ねるたびに、その狂気の確信は強まる。しかし、インガ・ニールセン演じるサロメには不思議と不気味さはない。意のままにならぬものへの支配欲は究極を極め、相手の意を殺すことでようやく手に入れる。ヨカナーンの断首、流れが止まる。静かである。倒錯した支配欲は愉悦へとかわる。しかしそこに救いはない。自らの破滅を意味する。人は人を支配することはできないのである、意思を相手が持っている限り。一発の銃声に全てが正気にかえる。暗転。


2002年11月28日の配役表
配役表(画像をクリックすると別画面で大きな画像がご覧になれます)


3.公演を聴き終えて
 (1)1時間半に満たないこの一幕の音楽ドラマは聴衆を魅了した。息をのんで見守るドラマの展開と倒錯した悦楽の世界が現実に戻ったとき、その完成度の高い演奏と舞台に、聴衆は自然と立ち上がり惜しみなく拍手を送った。サロメを演じきったインガ・ニールセンに、ヨカンナーンのファルク・シュトゥルックマンに、ヘロデのライナー・ゴルトベルクに、そして若き日本のマエストロ大野和士にである。

 (2)大野氏のサロメは、ちょうど1年ほど前の11月24日に、彼が音楽監督を務めていたバーデン国立(=州立)歌劇場のプレミエで聴いた。昨年のものと比較することは容易ではないが、当時、興奮さめやらぬ帰路の車中で、「心理描写の織りこまれた、砥ぎ澄まされた神経のような音表現と、耽美な音の世界のモザイクは、寸分のすきなく繰り広げられ、聴いている方としては微動だにすることが許されなかった。音はときにはりつめた糸のようにまたときに分厚く、豊かで、客席にどのように伝わるかが計算つくされていたように思う。」などと書いたメモが手元にある。
 もちろん、今回は、わずかな稽古時間で、隅々まで行き渡るようにオーケストラが反応したというわけにはいかなかったであろう。マエストロの指示にオーケストラはとりわけ前半は慎重であったようにも思う。またマエストロはそのことを受け止めていたようにも思う。そして、歌手の調子や劇場の大きさや質について、大野氏自身計算できなかった部分もあるかもしれない。にもかかわらず、大変に冴えた演奏であった。公演によっては、荒い音を出したり、ぞんざいであったりするこのオーケストラも、今回はバランスのとれた大変いい音で鳴っていた。そして、歌手の呼吸とマエストロそしてオーケストラの呼吸がだんだん合っていく様には大変驚かされた。

 (3)奇しくもこの3日後、予定の指揮者ヴァイグレの指揮によるサロメ(12月1日)を再び見たが、ずいぶんと違ったものであった。この日、シュトゥルックマンはさらに調子が上がっており、なおもこんなにうまく歌えるものかと感心した。しかしながら、いくつかの点で大野氏のサロメの方が私には感動的であった。
 ヴァイグレはここの指揮者であり、歌手や劇場についてよく知っている。したがって、ぎりぎりまでダイナミックスを使いこなし、またオーケストラをあおり微妙にテンポをゆらそうと勤めていた。しかし、病気から復調したことを印象づけたかったのかもしれない。気のせいか、元来オーバーアクションの彼がさらに最初から最後まで懸命であり、それが必ずしもオーケストラと折り合わず、アクションの大きさほど、呼吸や心理を反映するように伝わってこなかった。
 また、大野氏の演奏が、連綿と続く1幕もののこのオペラの中で、何度か、ふと息をのむような一瞬の効果的な休符がとられ、流れ出るような感情または息をのむその呼吸を大変よく表現していたのに対し、ヴァイグレの場合、音はとにかく連綿として続き、その指揮にわれわれ聴衆は幕切れまで強引に連れて行かれた感がある。
 また具体的な場面では、例えば、ヘロデが、ヨカナーンの首を所望するサロメに対して翻意を促し、代わりを尋ねる場面がある。劇中の登場人物にとどまらず観客も固唾をのんでその答え見守るのに対し、問われるごとにサロメは魔性的な確信を持って「ヨカナーンの首」をねだる。おそらく、サロメは、ヨカナーンに対する異常な支配欲の他に、自分を支配しようとする者の期待を裏切ることに異常な魔性的快楽を見つけていたにちがいないが、その固唾をのむシーンはクラリネットのトレモロによって表現される。大野氏のそれは、恐怖と不安の中、本当に固唾をのんで見守る登場人物(あるいは聴衆も含む)の心理を大変よく描写しており、その異常な雰囲気にかえってサロメは魔性を増していったのに対して、ヴァイグレのものは、トレモロの奏でる音にすでに答えの確信があり、したがってサロメの答えを先取りしており、サロメが答えたときにはもうその答えに驚きを覚えることはなかった。
 大野氏の公演では、かくのごとくに音楽による心理、深層心理あるいは背景描写と歌手の呼吸が合っていたのであろう。サロメ演ずるインガ・ニールセンは大野氏の指揮の元で本当に演じきり、歌いきっていた。最初のカーテンコールで、ヴァイグレの時にはすでに正気に返り拍手に応えていたインガ・ニールセンが、大野氏の時には放心し、虚脱したサロメであったことがとても印象的であった。


4.公演を聴き終えたまたそのあと....
 公演後、ご夫妻と食事をご一緒させていただいたが、いろいろとおもしろい裏話も聞かせていただいた。暗転のうちに幕が上がり、薄く明かりが灯り、さて振り始めようとしたとき、最初のソロを奏でるクラリネットが練習の時とは違う人であることに気づいた話。始まりを確認しようと、前日に説明を受けた舞台監督を捜したところ、当日には不在で、誰も確かなことを知らなかったという話。その話から転じて、とりわけドイツのオーケストラは、同じプログラムの公演を同じ人が演奏するわけではなく、楽団員のローテイションが優先され、それが指揮者とオーケストラの意思疎通という点で障害になっているという話。

 また、よく知られているように、ベルリンは東西分割されていた事情から、統一後も3つのオペラハウスを持つにいたっており、ベルリン市の財政難も手伝ってその統合が取り沙汰されてきた。バレンボイムの強いイニシャチブもありひとまずは3つのオペラが存続しているが、ドイチェオパーへの統合もそれほどありえないことではないらしい。素人目には、シュターツオパーの伝統はそう消せないだろうなどと思ったりするが、シュターツオパーの舞台裏は、他のオペラハウスでは考えられないようなことが手動で行われており、また客の目に触れないところはぼろぼろであるともいっておられた。あらためて具体的に聴かされると、シュターツオパーの将来を憂慮せざるを得なくなる。しかも、バレンボイム自身、怒濤のような昨年の活動のあと、何となくオペラから手を引き始めているようにも思える。そのようなことを反映してか、楽団員は、いつリストラに会うかに戦々恐々としているそうだ。現にイタリアでは、ある日突然オーケストラがなくなったケースがあるとか・・・・。そこから話転じて、連立与党の文化政策、CDUの文化政策などにも話は及んだ。話は尽きなかった。


野村 武司
 某大学法学部助教授。
 在外研究のため、ベルリン・フンボルト大学客員教授として、2001年よりベルリンに滞在(2003年3月まで)。
 (メールはこちらへ)
(2002.12.13 up)



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