18, ヴィオラ


 今夜は眠れない。 確信めいた予感がひしひしと迫る。
 ―― おれの寝つきが良くないのはいつものことだ。
 摩利は強がり半分に居直りを決めた。
 街の灯が落ちた闇に裏打ちされた窓ガラスで、自分がとにかくも平静な顔をしているのを確かめる。 ため息をボーフォール公に聞かれまいと夜空に視線を投げ上げて雲間に星を探すふりをしながら、そっと息を吐いた。
 「君もどうかね。それとも、いつものようにココアにするなら用意させるが。どちらにしても遠慮は無用だ」
 振り向くと、摩利の返事を待たずボーフォール公がブランデーグラスを二つ用意している。
 手から手へ無言でグラスが渡り、摩利はソファに座り込んだ。 底にわずかなコニャックを湛(たた)えた低い足付きのグラスは、哽(む)せかえるほど濃厚な香が満ちていた。
 ボーフォール公は安楽椅子に身を沈めて、いつものとおりグラスを手に今日届いた私信の封筒の束に目を通している。 普段は口にしない強い酒を、摩利はしばしの逡巡(しゅんじゅん)を経て一息にあけた。

 身体がほてって耳の奥が脈打っている。 熱を持った瞼(まぶた)が重い。耳元で「おやすみ」とボーフォール公がささやいた。 耳朶に口ひげが当たってくすぐったい――、これはいつものことだ。ぼんやりと考えるが、もう体の力は抜けている。 手足が動かないと考える自分の意識も、もはやどこか遠いところにある。

 ウルリーケが滞在するようになった2月末からアグネスの館はメーリンク家の人の出入りが頻繁になって、摩利は長期滞在を控えるようになった。 代わって、近時はボーフォール公のオフィスが父・鷹塔伯爵不在時の摩利の“定宿”だ。
 公の“一番の趣味”、摩利の好奇心とアグネスに起因するいささかの ―― 人には言えない ―― 情緒不安定、あれこれが絡み合って摩利が公の寝室で夜を過ごすようになるのに大して時間はかからなかった。
 ビジネスパートナーである鷹塔伯爵のひとり息子に対してはさすがに見境なく趣味を発揮しないだろうとの世間の予想など、公には通用しない。 だが、そんな世間の思い込みはありがたい。 加えて、公の使用人の仕込みのよさ、思音の人柄に対する信頼、摩利の日頃のソツのない社交など、さまざまな好条件のおかげで社交界の噂好きの好餌とならずにすんでいる。
 公も摩利も、世間を謀(たばか)り、当人たちの間には虚実ないまぜの駆け引きの匂いがするこの関係に、スリリングな快感を覚えているのは確かだ。
 けれども、摩利は好奇心や社会常識から逸脱する快感以上に、圧倒的に底知れないボーフォール公という人物に惹かれている。

 今夜、ボーフォール公は摩利の不眠の予感をやすやすと覆したことで ―― 若干、倒錯していると言えなくもない ―― 満足感を味わっている。 人には見せない人懐っこい笑顔でつぶやく。
 「表情を押さえようとしているのが気取られるようでは、まだまだポーカーフェイスとは言えないよ。 しかし、それもおいおい自分で気付いてゆくことだ。 人に教えられたからといって、できるようになるものではないからね」
 もしかしたら、秘蔵っ子を寝かしつけた父親の気分はこんなものだろうか?
 以前、寝ぼけた摩利が横に寝ていた自分を思音と勘違いしたことを思い出した。
 父親の代役? なんとも、自分に似つかわしくないことを考えるものだ。
 苦笑しながら、今一度、キャビネットを開けた。 こみ上げた笑いがどうにもこらえきれずくっと喉が鳴って、ブランデーのびんを掴んだ手が一瞬止まった。
 ―― 私と同衾(ともね)して、寝言に女の名を口にする。 そんなコメディは願い下げだよ。 今夜はぐっすり、そう寝言もないくらいに眠ってもらわないと。
 4月の深夜、ガウンを羽織っただけでは肌寒い。 グラスを空けたら、身体が冷えないうちに摩利が寝息を立てている寝台に戻ろう。

 弦を爪弾く音が遠くから聞こえてくる。
 とぎれとぎれのかすかな弦の音を、摩利のおぼろな意識が聞き逃すまいと身構える。 醒めきらない意識は、オシアッハ湖の別荘で、パリ郊外の館で、別室から漏れ聴こえてくるアグネスの朝のレッスンで目を覚ました日々の記憶に流れ込む。
 今聴こえる音と記憶の中の音とが重なる。ヴァイオリンにしては低すぎる。
 寝返りを打った。 大の男が3人はゆうに寝られるサイズの寝台だ。 摩利が寝返ってもどの方向に手足を伸ばしても、どこまでも果てしなくシーツが続いている。 となりに寝ているはずのボーフォール公がすでにいない。
 半眼のうすぼんやりした視界の彼方で、ボーフォール公が弦をはじきながらヴィオラに耳を寄せている。 ごくかすかな音がどうしてだか摩利にはくっきりと聞き取れた。
 「おや、起こしてしまったか」
 「いえ、なんとなく、目が醒めて…」
 自分のかすれた寝起き声が耳ざわりだ。
 「よく眠れたかね? 」
 昨夜、密かに摩利が眠れぬ一夜を覚悟していたのを承知で、いや、他ならぬ自分がその原因の駄目押しをしたことなど素知らぬ顔だ。
 「ええ、よく眠れましたよ。いつものとおり」
 ―― いつものとおり?  ブランデーグラスを手渡した後、手紙を読みながらも目の端で私が君を観察しているとは思わなかったのかね?
 公は、意を決してブランデーを呷(あお)った昨夜の摩利を微笑ましく思い出す。

 「…それは?」
 摩利が楽器に話題を振り向けた。
 「昨日、届いたヴィオラだよ。上の娘にと思ってね」
 ―― そういえば。
 摩利の記憶が蘇った。 去年の夏、ボーフォール公がコントラバスの名演を披露したシューベルトのピアノ五重奏「マス」では、ヴィオラのしなやかな音色も心地良く胸に染み入った。
 公の長女リュシルは、黒髪で、細面の、ちょっと頬骨の高い一目で大貴族のお姫様とわかる品格ある顔立ちだ。 感情が無いかのような面持ちで、さほど熱心でもないような弾きかたが妙に板に着いていた。 整った顔立ちがとびきり上品で無表情なのだから、まるで蝋人形のような冷たい印象だ。 ところが、その音色は他の演奏者を引き立てて自分のシューベルトを丁寧に歌っていた。
 摩利は、「リュシルの表情と演奏の落差は、父親譲りのポーカーフェイスだろうか」と、妙なことを考えたことまで覚えていた。

 「そろそろ正式にリュシルの婚約が整うので、父親からのお祝いを用意しておかなければならないという訳さ。 それなりの楽器(もの)を捜させていたのだが――、まあ、これなら良いだろう」
 むろん公の最後の一言は言葉のあやだ。 今、手にしているのは、妥協の余地なく気に入るものを徹底的に探しぬいてようやく手にした逸品だ。
 摩利は、しばらくシーツに頬杖をついてボーフォール公と新しいヴィオラを眺めていたが、窓から差し込んできた日差しにつられるように羽枕を背もたれ代わりに上体を起こした。 柔らかい髪から、骨格がはっきり見て取れる肩から腕(かいな)に、朝日が当たった。
 ボーフォール公は目の高さでヴィオラを水平に持ち、目を細めて全体を透かし眺めているようだが、その実は床(とこ)に座った摩利を鑑賞していた。
 ―― これくらい離れて眺めると程よく陰影がはっきりする。 この構図をラヴィニャンのバトー・ラボワール(洗濯船)にたむろしている連中に描かせるとしたら…。
 バトー・ラボワールは、モンマルトルのラヴィニャン通りを下ったところにあるアトリエだ。 “アトリエ”といえば体裁は良いが、「歩けば床がきしむなんぞ、いかにもセーヌ川に浮かぶ洗濯船のようだ」というのがその名の由来で、そのたたずまいを有体(ありてい)に描写すれば“木造の安アパート”だ。 数年前にピカソが住み着き、以来いつの間にか、画家に限らず各国から芸術の都パリに流れてきた男たちが居着いている。
 ボーフォール公は、創作活動に異様なまでの熱気を放つ連中の溜まり場を思い浮かべる。

 ピカソ、ブラック、いや、まだ彼らには到底及ばないが2、3年前から連中に加わって、未知の絵画を生み出す大きな時代のうねり ―― これは、のちにキュビズム(立体派)と呼ばれるようになる ――、その怒涛のエネルギーを存分に浴びている娘がいたな。
 近頃は、詩人アポリネールと浮名を流している才能と美貌を兼ね備えたバトー・ラボワールの紅一点、そう、マリー・ローランサンとかいった。
 あのパリ娘(ジェンヌ)なら、摩利の鎖骨のくぼみに溜まっている陽光をどんなふうに描くだろうか。
 ……若い娘に寝乱れた摩利を描かせる?

 摩利の眠りを妨げないとなったので、自分のあられもない思いつきに苦笑しながらボーフォール公は弓をあてて音程を整え始めた。
 「起きるなら何か羽織りたまえ。まだ、冷え込んでいる」
 そう言う彼は素肌に長めのガウンを一枚羽織っただけだ。 指を暖めるように音階(スケール)を流し始めた。 順番に調性を変え長調、そして短調、だんだんとペースを上げる。
 摩利の視線を他所に、歯切れの良い練習曲に移った。 手首をきかせ軽快に肘を上下させて弓をあやつり、摩利が指慣らしによく弾くヴァイオリンのクロイツェル教本の中の一曲を聞かせる。 興がのってくると右肩の動きがだんだん大きくなる。 厚手のガウンの襟元が少しはだけて、厚みのある胸が覗いた。
 「弾いてみるかね?」
 ボーフォール公が意味ありげに誘いをかけた。
 「いえ、大事なリュシルの婚約祝いですから…」
 「かまわないさ。年代物なのでね、彼女に贈るのは一度オーバーホールに出してからになる」
 断る理由がなくなった摩利が身支度を始めた。
 「ヴィオラは、ヴァイオリンより音域が4度低い」
 「ということは、ヴァイオリンの4本の弦はそれぞれ4度違いだから…」
 「そう、いつもより弦一本分低いと思えば、初めてでも音程はとれないことはない」
 実際に構えてみると重さも長さも、顎(あご)に当たる厚みも、見た目以上に大きさの差を感じる。 さらに弓もいかつい。
 ―― 音程はとれるはずだ。
 摩利はボーフォール公の言葉を口の中で繰り返して、左手でポジションをさぐりながら弓を当てた。



 今回、思音のロンドン出張は予定通り一週間足らずで終わった。 思音の帰国連絡の電報を受け取って、英国のオフィスが順調に動き始めたとボーフォール公も安堵の色を見せた。
 公から思音の帰宅予定を知らされた摩利は、一足早く自宅に戻って父を出迎えることにした。
 「長旅だから、思音もいつぞやのように途中で急に予定が変わるかもしれない」
 見送るボーフォール公が、摩利の頬に接吻すると片目をつぶって言った。
 「そんな時は私が夜中でも迎えに行く。君からの連絡を切に待っているよ」
 「ありがとうございます。でも、公もお屋敷のほうにも帰らなければご家族が…」
 「それは君の心配することではない」
 ませガキの差し出口を、怒るでもなくたしなめるわけでもなく淡々と受け流すので、かえって摩利には公の真意がつかめない。
 自宅では新吾からの手紙が摩利を待っていた。 また、やけに分厚いなと封を開けると、いつもの“定期便”の手紙の他に手で書き写した今年の持堂院の入試問題が同封されていた。
 ―― どうやって手に入れたのか。何日かけて写したのか。
 ところどころ字の調子の変化が、短時間の作業ではなかったと物語っている。
 ―― 何点くらい取れるだろう。制限時間は…
 新吾との手紙のやり取りくらいならば日本語の読み書きに問題はないものの、試験問題の解答となると以前よりずっと時間がかかりそうだ。
 ―― 知らぬ間に日本が遠くなったな。新吾のことを忘れていることが増えたか?  新吾は今でも「摩利がいたら」「摩利が戻ってきたら」と、常におれのことを考えているのだろうか?
 新吾の近況報告を読んで摩利はため息をついた。 当り障りないことで埋め尽くした摩利の手紙を文字通り受け取って、新吾の返事はいつも真っ直ぐだ。
 往来に馬車の轍が響き、メイドが思音の帰館を知らせに来た。

 摩利が書斎の扉を開けると、思音は着替えもせず電話を受けていた。
 「……、やはり、スペンサー伯爵ですか。 ええ、ロンドンで話が出ましてね。ドイツ方面の外交を担当していると聞いたのでもしやと思った次第です。 おそらくウルリーケも…。 電話でお話するようなことではありませんから、そうですね、今度の出稽古はいつになりますか?  では、その時に。
 メーリンク子爵夫人の件は先にお話したとおりです。頂いたお電話で長くなって…」
 ―― アグネスからの電話? おばあさまの件というのは、おれのベルリン留学のことだろうか。
 結局、摩利が思音とゆっくり言葉を交わしたのは夕食後だった。 摩利が新吾の手紙を読み直していると、部屋着の思音が声をかけた。
 「帰宅してすぐボーフォール公に摩利くんがお世話になったお礼の電話をしましたが…」
 思音がわずかばかりの躊躇を見せて言葉を切った。
 ―― おれが一緒に寝ているなんて、ボーフォール公がとうさまに言うとは考えられないけれど。 おれだって、いくらなんでも、とうさまには言えないし。 それとも、アグネスとのことで、何か思い当たることでも…。
 返事に窮することで摩利は自ら真実をさらす。
 「はは…、そうですね。自分を見失わないかぎりは、何事も経験ですからね、摩利くん」
 思音はその言葉のとおり今のところはそれ以上の追及もなく、新吾の手紙に話を流す。
 「新吾くんは元気ですか?」
 「ええ、とうさま。持堂院の入試問題の写しを送って来ました」
 「ほう…。どうです、解けそうですか」
 「時間制限が厳しいですね」
 思音は、一瞬戸惑った。 そして、その戸惑いは自分が無意識に「はい、もちろんです」という勢いの良い摩利の返答を予期していたからだと気付く。
 ふたり揃って持堂院に進学するのは自明としている新吾の手紙を読みながら、摩利は4日前のアグネスの館での出来事を思い出していた。

(2001.11.05 up)



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