19, 銀色の幽霊


 4日前、アグネスとウルリーケは、カウアー男爵とシュテファンを見送った。 朝からよく晴れて風もなく穏やかな日だった。 短いパリでの滞在をサロンコンサートや縁故姻戚関係の社交で過ごして、父と子はベルリンへの帰途についた。

 昼過ぎ、陽気に誘われてウルリーケはショールもはおらず庭に出た。
 裏庭の小さな噴水が休まず水を吹き上げている。 落ちながら砕ける水滴が春の日差しを乱反射した。 噴水の傍(はた)にうっすら掛かる小さな虹を見つけて、彼女はベンチに腰を下ろす。
 水面で次々と揺れながら消えてゆく同心円を見ている間は何も考えずにいられた。
 近隣の農家の荷駄を運ぶのか、屋敷の横手の道から荷馬車が通り過ぎる音がかすかに聞こえた。 高い塀と防風林の木立にさえぎられて姿は見えない。 しかし、小さな生活音はウルリーケを現実に引き戻した。
 ―― ベルリンに戻ったらカウアー男爵はおじいさまとご相談するわ。 そして、オットーと私の婚約は解消ね、多分。
 渡される引導がいよいよウルリーケの目前に迫っている。
 「どうなろうとも後悔しないとベルリンを出る時に決めたもの。 カウアー男爵がなんとおっしゃるか聞いてから決めるしかないわ。 でも、ベルリンに帰るにはまだ早すぎる…」
 ひとたび現実の世界に捕まると、いくら水面の同心円を追っても何も考えない世界には戻れない。 水音と波紋の微妙なズレが、自分の決意と気持ちの乱れを見るようだ。
 「これだけ暖かいと噴水のそばも気持ちよいわね」
 背後からの声にギクッと振り向くと、午後からの来客を迎えるためにすみれ色のドレスに着替えたアグネスが立っていた。 胸元と肩から袖口にかけての図案化された春の花々の刺繍がよく似合っている。

 ―― アグネスは今の独り言を聞いたかしら? 
 たとえ聞こえていてもアグネスは素知らぬ顔をする。 姉のそんなしたたかさを知っているだけに、ウルリーケは落ち着かない。
 「そろそろボーフォール公がお見えになる時間なのだけれど、」
 アグネスは、ベンチに腰掛けたまま自分を見上げているウルリーケの青い目を真っ直ぐ見返す。 病み上がりの頬のやつれは残っているが、ずいぶん気力は回復しているようだ。 いや、すっかり回復したつむじ風お嬢さんが、息をひそめて機会をうかがっている風情とも見えなくもない。
 「今日は、この館の引き払いの日取りを相談することになっているのよ。 ゆうべも話したけれど、あなたも、そういつまでもここに居られる訳ではないって…」
 口調は柔らかくても、わがままな妹にけじめを求める言葉は直截だ。
 「わかっているわ」
 「それと、少しはおかあさまやおとうさまのお立場も考えて頂戴」
 「ええ」
 ひとまずうなずいてはみせるが、視線は足元に落ちる。
 「だけど、できるなら、ベルリンへ戻るのは6月になってからにしたいの。 6月になったら必ず帰るから」
 「あと一月半もパリに?」
 ―― 一月半のうちには、間違いなくカウアー男爵が婚約の行方について結論を出すわ。 それをここで待とうというのかしら。
 もしかして、ウルリーケ、あなたはパリで婚約解消の知らせを受けたら、そのままロンドンへ、インドの彼のところへ、行こうとしているの?
 館のほうから小走りでメイドが二人を呼びにきた。
 「ボーフォール公爵様と鷹塔伯爵の若様がお着きになりました」
 「あら? 気がつかなかったわ。ウルリーケ、あなたは馬車の音、聞こえた?」
 「ううん。この木立の向こうの道を通るのよね? ここにいれば馬車の音は聞こえるはずなのに。 特に公の馬車は大きいし」
 アグネスは、ベンチから立ち上がったウルリーケと「変ね」と顔を見合わせた。

 玄関の車寄せの正面を少しはずして、アルミニウムボディのロールスロイスが止まっていた。 ボーフォール公が摩利を助手席から降ろしている。 娘たちが目を見張った。
 「まあ!」
 「お似合いですわ!」
 公は、皮の帽子ですっぽり頭を覆い、照り返しがあってもまぶしくないように薄くオレンジ色に染められた防風眼鏡(ゴーグル)をかけている。
 「お約束の時間より、ずいぶん早く着いてしまいましたな」
 額(ひたい)に防風眼鏡をずらし上げ分厚い皮製の長手袋をはずしながら、新しいおもちゃをほめられた子どものような笑顔でボーフォール公が応える。
 「摩利、あなたも防風眼鏡も帽子もよく似合っていてよ」
 アグネスがいつものように摩利の頬に接吻しようとすると、ボーフォール公があわてて声をかけた。
 「いや、とにかくふたりとも埃(ほこり)まみれですから…」
 「あら、気がつかなくてすみません。 今日はリムジン(屋根付きの箱型の車)ではありませんものね。 すぐに水差しを用意させますわ」
 「リムジンは車高が高いから角を曲がるたびに大揺れして仕方ない。 近場の夜会に行くならいいが ―― なにしろ、シルクハットをかぶっていても天井につっかえませんからね ―― 、郊外へのドライブには不向きですよ」
 「シルヴァーゴーストは全然揺れなかったよ。 嘘みたいに静かだったし」
 皮帽子のあご紐をはずしながら、摩利まで得意げにアグネスに答えた。
 「銀色の幽霊(シルヴァーゴースト)?」
 「そう、幽霊(ゴースト)のように物音を立てないという触れ込みの英国車なんですよ。 昨年注文しておいたのがようやく届いて、今日がお披露目です」
 「まあ、初乗りで私のところへ? でも、ガソリン自動車ですわよね? それが静かなのですか?」

 20世紀初頭、自動車の揺籃期が終わろうとしていた。 自動車レースには、蒸気自動車、ガソリン自動車、そして電気自動車が混在する時代だったが、時を追ってガソリンエンジンが他の動力より圧倒的に優れていることが証明されていった。
 「そうよ、普通のガソリン自動車ならひどく騒々しいから、私たちも裏庭にいても気付いたはずだわ」
 自動車は騒音を撒き散らすものと毛嫌いする祖父メーリンク子爵を思い出しながら、ウルリーケも口をはさむ。 それを聞いたボーフォール公は、我が意を得たりとばかりの表情になる。
 「ガソリン車といえば喧騒が車輪をつけて走るようなものという常識を覆しましたよ、シルヴァーゴーストのエンジンは。 電気自動車の静かさと、今までのガソリン自動車以上の力を兼ね備えています」
 シルヴァーゴーストはフレデリック・ヘンリー・ロイスの大傑作、直列6気筒エンジンを搭載している。 それは、スムースな運転と高出力、そして「エンジンをかけた室内で聞こえるのは懐中時計の音だけ」という伝説をこの車にもたらした。
 「うん、馬よりずっと早いんだ。馬車なんか比べ物にならないよ」
 シルヴァーゴーストの最高時速80キロはカタログ数値とはいえ、平均時速が10キロメートルにも満たなかった当時の駅馬車など比肩できるはずもない。
 この日、実際にはどれくらいの速度でパリ郊外を走り抜けたかボーフォール公は語らないが、摩利が目を輝かせ勢い込んで話すところを見ると、彼が経験したことのある馬の全力疾走の速さを楽に越えていたはずだ。
 「確かに、速度、乗り心地、操作性と今までになく良く出来た自動車だが、しかし、道の埃はどうにもならない」
 舗装道路などほとんどない。 乾いた泥道を走り抜ける自動車の周りはもうもうと土ぼこりが舞い上がり、オープンカーに乗る人々の全身に埃をまぶしつけた。
 埃の中、小石を跳ね上げながらのドライブには、頭髪の埃よけに淑女ならネット(当初は養蜂家用ネットの流用も珍しくなかった)、紳士なら皮帽子は必需品だった。

 アグネスが車のぐるりを見て廻った。
 ボーフォール公の注文にあわせて精密に作られた車体は華麗だ。 内装もこの時代ならではの贅を凝らした特注で、極上のビロードやなめし皮、厚手の絨毯生地をふんだんに使っている。 そして、華麗な車体に相応しくエンジンには最高最新の技術と職人芸がつぎ込まれている。
 「銀色(シルヴァー)のボディも、ランプや金属類の銀メッキも、埃だらけになってしまいましたわね」
 アグネスの言葉に、脱いだ皮帽子のあご紐の横についた耳の埃よけを折り曲げながら、公が少し得意そうに苦笑する。
 「これではせっかくの新車が泣きますわ。家(うち)の者に外側だけでもぬぐわせましょう。 それにしても、公がご自分で運転なさるなんて…」
 運転席の複雑な構造を覗き込んだアグネスが微笑みながら語尾をぼかす。
 ―― 運転はお抱え運転手まかせが当たり前なのに、公はよほどこの高価なおもちゃが面白いのだわ。
 「ハンドルにスロットルレバーと点火レバーが装備されたので、非常に運転しやすくなった ―― こんなことは自分で運転してみないとわかりません。 我々の商品になるかもしれないものは、なんでも自分の目と手で確かめるのが鉄則ですよ」
 片目をつぶってもっともらしいことを言うが、公自信が一番楽しんでいるのは誰の目にも明らかだ。 第一、並みの金持ちの手が届く代物(しろもの)ではないのだから、商品も何もあったものではない。
 話が尽きないところへお湯のご用意が整いましたと執事が知らせに来た。 一同は車を離れて建物に入った。

 全くの余談になるが、渡欧直後の夜会の駐車場で、新吾は“イスパノスイザ”を見かけて喜んでいたが、この高級自動車メーカーも20世紀初頭に誕生した。
 創設者が、スペイン(イスパノ)の銀行家とスイス人(スイザ)の技術者だったので、当初は(ボーフォール公がロールスロイスを購入した時点でも)、スペインで生産活動をしていた。 フランスに生産拠点が移るのは、これから数年の後になる。



 おきれい事ですまない込み入った世俗の打ち合わせのために、アグネスとボーフォール公が応接室に場所を移した。 居間にはウルリーケと摩利が残された。
 「とうさまが、『ウルリーケがそれほどロンドンへ行きたいのなら、みんなで一緒に旅行してもよいのだが』と言ってたけれど」
 二人きりになれたのをよいことに、摩利はアグネスいや、メーリンク一族全てに顰蹙を買いそうな話題を持ち出した。
 「本当に、行ければと思うわ」
 つむじ風のあだ名を返上したようなしおらしい返答に、摩利はあっけにとられた。
 「もう、ロンドンへは行きたくないの?」
 「そうね。行ってみたいけれど。でも、行ってもどうなることか。もう、これだけ騒ぎを起こしたあとだし」
 誰も居ない居間をことさらに見回してから、摩利は声をひそめささやくように尋ねた。
 「あの、インドの彼の居場所はわかっているの? 」
 まだ誰にも告げてない本音を漏らしたものかどうか。 一瞬、ウルリーケは躊躇する。 それでも、摩利の気遣う様子が微笑ましいのか、そっとうなずいた。
 「ええ、大学の寮に入っていて、週末はスペンサー伯爵の奥様のご実家に戻るそうよ。 夏の長期のお休みにはインドに帰るのですって」
 「彼と連絡が取れたんだ、よかったね」
 「いいえ、スペンサー伯爵に聞いたのよ。 2月にベルリンにいらっしゃったときに。もう、2ヶ月以上前の話になるのだわ」
 「それで、お屋敷を飛び出したの? 」
 「そう! 内緒よ、アグネスには」
 首をすくめ舌を出して見せる。
 「ねえ、だったら、大学と寮の名前がわかれば、こっそり手紙を出せるよ。 住所は、ぼくの家にしておけば…」
 人の気配に摩利が口をつぐむと、お茶のセットを載せたワゴンを押してメイドが扉を開けた。

 メイドの視線を背中に感じながら、摩利はウルリーケに尋ねた。
 「“ヴィルヘルム”という名前を聞いて、ウルリーケは誰のことを思い出す? 」
 自分の気持ちのどこかに潜み続ける小さな冷たいしこりをほぐせるかもしれない ―― そんな期待で言葉に力がこもった。
 「ヴィルヘルム? そうねえ、皇帝陛下がヴィルヘルム2世だわ」
 ウルリーケは、インドの彼の話題をメイドに気取らせないために摩利が気を利かせたと思い込み話を合わせる。
 「あ、そういえば…。じゃあ、ウルリーケは皇帝陛下にお会いしたことある? 」
 「ないわ。おじいさまやおじさまからお話は聞くけれど」
 「アグネスはお会いしたことあるかな? 」
 「どうかしら…。 ベルリンにいた頃のアグネスは、私より夜会に出る機会が多かったから、お忍びでいらしてた陛下にお目にかかったとしても不思議はないけれど。 でも、私はアグネスからそんな話はきいたことはないわ」
 「それなら親戚とか、知り合いの中にはヴィルヘルムって…?」
 「珍しい名前ではないから、いないはずはないけれど…。ええっと、ちょっと待ってね…。 案外身近な人を忘れていたりするのよね。
 そうそう、母の実家で子供のころ一緒に遊んだ遠縁の男の子がヴィルヘルムという名前だったわ。 私より少し年上だったかしら」
 ―― ウルリーケより少し年上なら、アグネスとは同年代になるよな。
 首をかしげて記憶を掘り起こしているウルリーケの頬を、摩利が食い入るように見つめている。

(2001.11.26 up)



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