23, 2度目の春



 重苦しい沈黙のあとにウルリーケが言った。
 「ロンドンに行ったって、ルディには会えないわ」
 低い声だった。
 「どうして、それを? それならどうして…? 」
 ウルリーケは答えようとするが声にならない。
 ―― そう、知っていたの…。
 アグネスも無言で答えるしかなかった。 今日レッスンが終わって思音の書斎で聞いた話を思い出すと暗澹とした気分になる。 一緒に聞いていた摩利は、アグネス以上に憤(いきどお)っていた。


 1月、逮捕されたインドの過激派から情報提供者として自分の名前があがった直後、スペンサー伯爵は愕然とした。
 ―― あれだけ注意していたのに、どこがほころびたのか? いや、今はそんなことを考えている暇はない。 なにしろ、事件が表沙汰になる前に身辺に捜査が及んでいると情報をつかんだのだ。 まだわしの運も尽きていない。
 韜晦術(とうかいじゅつ)に長けた老獪な政治家は、気落ちするより先に巻き返しを計る。 自ら進んで事情説明の場に臨んだ。 事件解決に協力する姿勢を印象づけるのと、捜査を自分の都合よく捻じ曲げるのと、一石二鳥を計算してのことだった。
 「私はインドのことではカーゾン卿に大変世話になっている。いや、そんな個人的な話は二の次だ。 なによりわが大英帝国の不利益になるようなことを私がするはずがない」
 ピンと跳ね上げた口ひげを引っ張りながら、断固と釈明の大風呂敷を広げる。
 「カーゾン卿のような有能な人材をわが国がどれだけ必要としているか、私も対外交渉の任にあずかっている身としてよくわかっている…」
 ―― 捜査する側の面子(めんつ)は、立ててやらなければならない。 なに、彼らにとってもわしにとっても手頃な生贄(いけにえ)を差し出せば一件落着だ。
 「カーゾン卿がインド人には道徳心がないと言ったのは実に正しい。 あやつめは、カーゾン卿の暗殺と私の失脚とで二兎を追ったのだろうが」
 スペンサー伯爵の証言の翌日、伯爵夫人の実家の一室でルディの服毒死体が発見された。 毒はインドの植物から採れるものだった。
 ―― これで充分だ。名門貴族のわしをそう簡単に逮捕できるはずもない。
 育ちの良い世間知らずの青年に罪を着せ自殺に見せかけるのは、スペンサー伯爵にとって赤子の手をひねるより簡単で、年老いた猟犬を撃ち殺すほどの憐憫の情もいらなかった。


 思音はロンドン滞在中に耳に入ったことを手短に語ると、去年の夏、“インドの彼”に会うために別荘からひとりでベルリンに飛んで帰ったウルリーケの姿を思い出して言葉を切った。
 「噂ではなく信用できる人から聞きました。この話は間違えないでしょう。
 自殺したのは、英国政府から男爵の称号を贈られたインド屈指の名門財閥の子息だとか…。 スペンサー伯爵は無関係だったとして事件は解決されたそうですが…」
 アグネスはスペンサー伯爵の顔が見えたような気がした。 もう10年近く顔を合わせていないのに、倣岸な顔立ちをはっきりと思い出す。確かに彼はほくそえんでいる。
 「インド国民会議の有力議員の甥で、政府高官への道が約束されている青年が、反英国過激派テロリストに協力するのはいかにも不自然でしょう。 実際には自殺と言う名の虐殺だっただろうと、誰もが承知しているようです」
 摩利は、ウルリーケがどれだけショックを受けるかと思うと、自分のことのように気が滅入った。


 ウルリーケは声を立てずに姉の胸で泣きながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
 「2月にね、スペンサー伯爵が笑いながら話してくれたわ。うん、とても楽しそうに得意そうに笑っていた…。
 『あの留学生、自殺しましたよ。スパイだったんですよ。 一番妥当で無難な結末でしょう。国際問題になったら厄介ですからね。 さんざん私たちの世話になったのだから、それくらい役にたってもらわないと』って言いながら。
 あの言葉全部、私、一日だって忘れられないわ」
 壊れた道具を捨てるほどにも感情を持たない言い草を思い出して、ウルリーケの頬に新たな涙が伝う。
 「スパイ? 自殺? 彼はそんな人じゃないわ。
 ロンドンに行って自分で確かめてみようと思ったの。  ―― ええ、それでどうなるわけでもないけど。わかっていたけれど、でも…」
 「……」
 「ちょうど旅行仕度もできていたし…」
 泣きながら弱々しい照れ笑いを浮かべる。
 「実はね、伯爵にルディの居所(いどころ)を聞き出したら飛び出そうと思って、何か月も前から用意しておいたのよ。 万一、ベルリンで見つかって連れ戻されたら、『アグネスのところに行こうとした』って言い訳できるようにフランス経由にして…」
 「つむじ風お嬢さんが無茶をして…」
 姉の言葉は優しかった 。
 「……、ごめんなさい。みんなに迷惑をかけたわよね」
 「ともあれあなたが無事でよかったわ」
 「ああ、そう、私がいつまでもパリにいる理由よね。
 去年ね、5月のウンターデンリンデン、彼と歩いたの。とてもきれいだった。
 私、ひとりで5月のベルリンを見たくないわ……」
 ここまで語るのが精一杯だった。言葉を詰まらせた妹をアグネスが抱き寄せた。
 「わかったわ。もう、充分よ。よく話してくれたわね。今までひとりでよく辛抱して…」
 アグネスはこれでつむじ風お嬢さんの2度目の家出を心配しなくていいわという安堵も覚えていた。



 他人を無実の罪に陥れ自分は安穏と利を貪(むさぼ)る ―― 国を問わず時代を問わず珍しい事件ではないと、14歳の摩利は割り切れなかった。 だからといって自分にはウルリーケに手を差し伸べる術もない。 鬱々した気分でアグネスを見送って自室に戻ろうとしたら、背後から思音が声をかけた。
 「摩利くん、久しぶりにどうですか? 」
 新吾の手製の竹刀を持っている。素振りが健康法というだけあって、竹刀を握ると脇も背筋もひときわ引き締まる。
 「はい、おれの竹刀、とってきます」
 ―― とうさま、ありがとう。そうですね、おれが落ち込んでも何の解決にもならない。 それに、おれは落ち込むときりがないほうだし。
 庭に出ると面小手もつけず摩利の方から仕掛けるが、すぐに形勢は逆転し、「まだまだ!」と思音が余裕たっぷりに打ち据える。 実力差は歴然だ。
 がむしゃらに突っかかって摩利の息が完全に上がる頃、思音の呼吸も荒くなる。ふたりとも存分に汗をかいた。 汗と柄(つか)の感触が思音に学生時代を思い出させる。それは即ち隼人と過ごした日々の記憶だ。
 「新吾くんに手紙を書くときには、使い込むほどに馴染むこの竹刀を、私も大変気に入っていると伝えてください」
 思音が首筋の汗を拭きながら言う。
 「はい、とうさま」
 父と時間を過ごし満ち足りた摩利の笑顔だ。
 「あ! 一日伸ばしにしていたら、4月は手紙を出しそこなった!」
 持堂院の入試問題に手をつける暇がなかったのだろうと、思音が黙ってうなずいた。
 「でも、5月の初めか中ごろまでには、新吾から次の“定期便”が届きますよ。 おれが返事を出そうが出すまいが、新吾は必ず月に一度、手紙をくれるから」
 ―― おれが日本を離れて2度目の春か。新吾は何を思い、何を感じているだろう。
 摩利も再び遅い欧州の春を迎えている。新吾と離れた季節が巡っている。



 2月から誰にも相談できず、泣き顔さえ見せられなかったウルリーケは、泣くだけ泣くと落ち着きを取り戻した。 今でも、「一生涯、彼を忘れないわ」と繰言(くりごと)をいうが、現実は受け入れなければと決心しているようだ。
 アグネスもひとつ肩の重荷が取れた気分だった。
 ―― ボーフォール公がおっしゃったけれど。 「特効薬は、時間と距離 ―― できれば物理的に ―― を置くことです」って。 でも、それも、良きにつけ悪しきにつけ…ですわ。 生きている限り現実は目の前にあるものだから。
 気持ちが落ち着くにつれて、ウルリーケの刺繍が目に見えてはかどるようになった。 これまでは針を手にしたまま、ぼんやり時間を過ごすことも多かったのだろう。
 「そろそろ出来上がり? 」
 「ええ、もう少しよ。次はアグネスに何か作ってあげるわ」
 「まあ、うれしい。楽しみだわ」
 「あ、そういえば、おばあさまが摩利にメーリンクの館への招待状をお出しになったのは、去年の今ごろだったわよね? 」
 手にした楽譜から顔を上げて、アグネスが小首をかしげた。
 「ええ、おばあさまから茶話会にいらっしゃいってお手紙が来たのは、5月になってすぐだったわ。 ちょうど今頃ね。 もう一年前になるのね」
 「いろんなことがあったわね、この一年」
 執事が電報を持って入ってきた。 アグネスは文面に目を通すと黙って妹の横顔を見つめた。
 「どうしたの? 」
 刺繍糸のはしの始末をしながら、ウルリーケが尋ねた。
 「オットーからよ。明日、パリに着くそうよ」
 いよいよだわとウルリーケが胸の中でつぶやく。
 「彼には本当に悪いことをしたと思っているわ。結婚する気もないのに時間稼ぎに縁談を受けたなんて。 だから、婚約解消は正解かも…」
 姉の視線にいささかの棘(とげ)を感じて、あわてて語尾を変える。
 「なんてことはないわ。第一、おとうさまやおかあさまは解消して良かったなんて絶対にお考えにならないもの」
 「私だって思わなくてよ」
  ―― おっとりした口調できついこと言うのよね。とんだ藪蛇(やぶへび)だわ。
 「でもね、おとうさまやおかあさまには申し訳ないけれど…。 それでも、何もしないでおじいさまの言いなりに結婚したら、私、その方が絶対後悔したと思うの。 まわりを巻き込こんで、アグネスにも迷惑かけたけど…。 自分でできるだけのことはしたから、あと一生を修道院で過ごしても、思い残すことないわ」
 最後の一言に力をこめて、ウルリーケは姉を見た。
 「こんなつむじ風お嬢さんを受け入れてくれる修道院があるかしら。心配だわ」
 あながち冗談と思えないため息だった。
 「悪い冗談ね。 ―― 確かに持参金の割増は必要かもしれないわ」
 さらに性質(たち)の悪い冗談を返すウルリーケにあきれながらも、彼女の覚悟を読み取って微笑んだ。
 「アグネス、私もひとつあなたに聞きたいことがあるのだけれど…。 あの時、摩利との“痴話喧嘩”で話が飛んでしまったけれど」
 「ウルリーケ!」
 「もちろん誰にも言わないわよ、安心して。ボーフォール公は暗黙の了解みたいなお顔だったけれど」
 「安心って、私は別に…」
 ―― アグネスも摩利も、インドの彼のことを誰にも言わないって約束を守ってくれたのだから、私もこの話は見て見ぬふりよ。 それにしても優等生のアグネスをこれだけ狼狽させるなんて、摩利も大したものだわ。
 「いいから、私が聞きたいのはそんな話じゃないの。もっと大事なこと」
 「大事? 」
 「ねえ、アグネス、本当にベルリンに帰りたいの? それでいいの? 」  

(2002.2.18 up)

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