24, 小鳥



 翌日、さすがにウルリーケは朝から落ち着かなかった。 念入りに髪を結い、どの色が顔色よく見えるかしらとドレスを選んで、「まるでオットーとお見合いでもするみたい」とひとりで苦笑した。
 長い一日だった。夕暮れ時にやっと執事が来客を案内して部屋の扉を開いた。 今年30歳になる職業軍人は勲章をつけた軍服姿で現われた。
 ウルリーケが思わず立ち上がった。表情がこわばっているのが自分でもわかる。

 「わたしの小鳥さん」
 なんて挨拶をすればいいのかしらと戸惑っていたウルリーケを、オットーがいきなり抱擁した。 仕事柄、日々鍛錬を欠かさないのだろう、腕も胸もしっかりと筋肉がついている。 大きく抱きかかえられて唖然としているウルリーケの顔を、不安そうにオットーが覗き込んだ。
 「すまない、ウルリーケ。私が悪かった」
 真顔(まがお)で真剣な謝罪だ。 ウルリーケが困惑してちらとアグネスを見ると、彼女も狐につままれた面持ちでこちらを見ている。
 「仕事のためとはいえ迎えに来るのがこんなに遅くなってしまった」
 「迎えって、あ、あの…」
 「言い訳になるが、私はあなたが病気だったことも知らなかった。だから、これでも…」
 「病気より、家出、いえ、その…」
 「通信が、どうしても…」
 しどろもどろ、ふたりの会話が噛み合わない。 アグネスも事情は飲み込めないが、とにかくも助け舟を出す。
 「オットー、お掛けになりませんか? そのほうが積もるお話をゆっくり伺えますわ。 さ、ウルリーケもお座りなさい」
 ウルリーケはオットーの腕を抜け出して姉の横に座った。
 「軍人というのは因果な仕事だ。時として自分の所在を連絡できない」
 オットーは、接吻ひとつさせずに身を引いたウルリーケを目の前にして口ごもりがちだ。
 「今年になってから、私はずっと西南アフリカにいた」
 メーリンクの孫娘たちが、日焼けして赤っぽく見えるオットーの顔をまじまじと見た。
 「西南アフリカ! 以前、反乱がおこったところですか? 」
 「何年前になるのかしら…。大規模な反乱だったと…」
 彼は大きくうなずいた。
 「3年か、いや、もう4年前になる。1904年だった。 あの時は現地駐留部隊ではラチがあかなくて、本国から援軍が派遣された」
 ドイツ領西南アフリカの被征服部族ホッテントット族とヘレロ族による武装蜂起だった。 結局はドイツからの援軍によって鎮圧されたが、火種までが消えたわけではない。
 「知ってのとおり、今でも西南アフリカは軍隊が駐留して治安を維持している。 今回、私は数ヶ月の勤務だったが、アフリカでは通信事情が悪い。 つまり、その、ドイツ国内と同じに考えられない。いや、欧州とは全然違う」
 向かい合って座る娘たちの顔にかわるがわる心配そうな目を向ける。
 「通信部門の手違いも重なった。間が悪かったのだ。…いや、これはいい訳だ。
 私は4月にベルリンの宿舎に戻って、父からの手紙を読んだ。父が2月に出したものだ。 それで、やっとあなたが病気だったと知った。 そして、すぐにあなたに手紙を書いた」
 細やかに言葉を選べない無骨な武人が、自分の腕をすり抜けてしまった少女に情愛を伝えようと、傍目には微笑ましいほど精一杯の努力をしている。
 「ええ、頂きました。できるだけ早くパリに向かうと…」
 ウルリーケの返答に、いっそう顔を曇らせた。
 「ところが、それから休暇を取るのにまた手間取った。 家族の病気なら少しは融通もつく。だが、婚約者では無理を通しにくい。 いや、できるだけの無理はした。自宅にも戻らず、見てのとおり着の身着のままで駆けつけて…」
 アグネスが尋ねた。
 「では、アフリカからお帰りになって、まだ、カウアー男爵にはお会いになっていらっしゃらないのですか? ご相談とか…?」
 「父は今、健康でなにも変わりない。それより、命も危ぶまれた許婚(いいなずけ)に会う方が先だ」
 アグネスとウルリーケはなんとなく見当がついてきた。
 「旅先で具合が悪くなったウルリーケは、何が気に入らないのかベルリンに戻らない」、どうやらオットーにはこんなふうに話が伝わっているらしい。
 ―― 知らなかったとはいえ2か月もほったらかしにしてしまった。 私はなんと不誠実な婚約者だろう。 ウルリーケが愛想をつかすのも当然だ。
 戦場ではどれほど近くで砲弾が炸裂しても、銃弾が頬をかすめても眉ひとつ動かさず平然と任務を遂行する豪胆で有能な青年将校が、今、心中の不安と戦いながら婚約者の心を取り戻そうと必死だ。


 その夜、皆が寝静まったころ、ウルリーケがアグネスの部屋に入り込んできた。
 「インドの彼を忘れるなんてできないし」
 「忘れなくてもいいでしょう」
 まだ、今はという言葉をアグネスが飲み込む。
 「そう、かしら…」
 ウルリーケが自問して黙り込み、途切れ途切れに自答する。
 「そうよねぇ…。 私みたいな…、つむじ風お嬢さんを受け入れてくれる修道院…、これから捜すのも…、大変よねぇ……」
 燈火が長椅子の上に作る自分の影の縁(ふち)を指でなぞる。 深夜、時間が止まったような深閑とした空気の中で、彼女は俗世とは別の場所に入り込んだ気がした。
 「まだ、今は…。でも、いつか…? とても今は考えられないけれど… 」
 無理に微笑もうとしたら、突然、涙があふれてきた。
 「オットーと一緒にベルリンにお帰りなさい」
 アグネスの声は穏やかで暖かった。しかし、ウルリーケには厳(おごそ)かな宣告だった。
 「大丈夫よ、何も心配することないわ。おじいさまやカウアー男爵にも、オットーがきっとうまく話をしてくれてよ。 あなたが、おかあさまのお土産にすると言っていた刺繍も刺しあがったことだし」
 ゆるやかに波打つ妹の金髪をなで、頬に接吻した。


 ベルリンに帰る日、ウルリーケとオットーはアグネスとともに鷹塔邸に立ち寄った。 オットーは許婚(いいなずけ)の命の恩人である思音に心底の感謝を伝えた。
 スペンサー伯爵の一件を聞いたばかりの摩利は、ウルリーケと連れ添うオットーを見て、これで収まる所に収まったのだと理解しながらも、祝福の言葉に今ひとつ気持ちを込められない。 けれども、思音は、ウルリーケの家出に関して小うるさい詮索もせず、彼女が元気になったことを手放しで喜んでいるオットーの大らかさと、許婚と呼ばれてはにかむウルリーケを見て、内心胸をなでおろした。
 「アグネスに聞いたのだけれど、摩利、ベルリンの寄宿制の学校に入学するかもしれないのですって?  そうしたら、学校がお休みの時はギュンター伯父さまのお屋敷に居るようになるって」
 「え? うん、もしかしたら…」
 「楽しみだわ。私も大歓迎よ。伯父さまのお屋敷はメーリンクの館から近いから、いつでも会えるようになるわ」
 もともとが口数の多いほうでないオットーは、年の近い従姉弟の気のおけないやりとりの聴き手にまわって楽しそうだ。 彼は鷹塔邸へ来る道すがらの馬車の中で、1年前にウルリーケと摩利がメーリンク伯爵夫人の茶話会に騒動を巻き起こした“姉妹ごっこ”の話を聞いて、腹を抱えて笑ったばかりだった。
 「列車の時間は大丈夫かしら? 」
 アグネスの声でオットーが懐中時計を取り出した。
 「そろそろだ。では、失礼しよう、ウルリーケ」
 彼が許婚の背にぎこちなく手を回す。
 「あ!」
 立ち上がったはずみに摩利とウルリーケが同時に声を上げた。
 「とうとう!」
 ふたりを並べて映している鏡の中で、誰の目にも明らかに摩利の方が背が高い。
 「やった!」
 「男の子って、どうしてこんなにすぐ背が伸びるのかしら!」
 ムキになって悔しがる妹に、鏡の中のアグネスも苦笑している。
 「この娘(こ)は、別れ際までこの騒ぎですもの…。
 あら、少し…」
 アグネスはかぶった帽子の飾りピンの位置が気に入らないようだ。 玄関ホールに向かう廊下を歩きながら手探りでピンを整えるアグネスに、思音が言った。
 「また、ひとり暮らしになってしまいますね」
 彼女は、華奢な指でピンの先についた大粒の真珠を落ち着かせて、ゆったりと笑った。
 「ええ、でも、慣れていますわ。それに、私も後始末が終われば…」
 摩利の視線がアグネスの右手に注がれた。
 「気がついて? あの指のインクの染み」
 ウルリーケがいたずらっぽく耳打ちする。
 「もう今や彼女の机の上は便箋の山よ。 おじいさまだけでなく、そうね、10人近くになるわ。ほとんどドイツ宛。 本当に、皇帝陛下にだって直訴しかねない勢いなのよ、アグネスったら」
 アグネスが自分の名前を聞きとがめた。
 「ウルリーケ、また、あなた、摩利に何を…? 」
 「なんでもないの!」
 ウルリーケは肩をすくめて舌を出し、オットーに手をとられて馬車に乗り込んだ。
 ―― ヴィルヘルム2世に直訴? 
 摩利が確かめる暇もなく3人を乗せた馬車は駅に向かった。 したたりそうな新緑をまとう街路樹が春たけなわの日差しを浴びていた。




 結婚後ほどなくオットーは戦死し、ウルリーケは二十歳そこそこで寡婦となる。
 ウルリーケの思い出の中に真っ先に現われるオットーは、いつもアグネスの館を訪ねた時の軍服姿だ。 そして、彼女に「わたしの小鳥さん」と呼びかける。

(2002.2.25 up)

(23) 2度目の春 / (25) 手紙

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