3, ペルチャッハ


 アグネスの館の東翼、その突き当たりは小ホールになっている。 室内楽に手頃な広さで、ドーム型になった天井のほどよい残響が楽器の音色を引き立てる。
 サン・サンースの「序奏とロンド・カプリチオーソ」が聴こえる。 常にまして軽快な音だ。 摩利は、休止部分でアグネスが弓を下ろす頃合を見計らってホールに入った。
 若草色のドレスのアグネスが振り向いた。 手の中で、窓からの木漏れ日に蜂蜜色のヴァイオリンが光っている。 いつも彼女が愛用しているものより、ずっと明るい色調のヴァイオリンだ。
 「どう? この音色(ねいろ)は?」
「とても明るい軽やかな音ですね。でも、芯が通っているような感じがします」
少年の華奢な肢体で小首を傾げ、口調だけが大人びてもっともらしい。 摩利の場合はこのませた物言いがいやみにならず、むしろ、企まない背伸びが大人たちの微笑を誘う。
「摩利はこういう音は、お好き?」
「ええ、とても!」
よほどその音色が気に入ったらしく、頬が上気している。
「じゃあ、ちょっと構えてみてくださる?」
手渡された艶やかなヴァイオリンは、柔らかな曲線がしっくりと身体になじんだ。
「あなたの髪によく映える色合いだわ。具合もよさそうだけれど、どう?」
「弾きやすそうです」
「よかった。摩利、もう、3/4は卒業してフルサイズにしましょう」
「この前言っていた素敵なプレゼントって…」
「そう、そのヴァイオリン」
 ヴァイオリンは体の成長にあわせて、1/2、3/4など楽器の大きさを変えてゆく。 摩利がそれまで使っていた3/4サイズのものは、思音がわざわざ自分の手で欧州から持ち帰った、明治30年代の日本では貴重な品だった。 が、実際の演奏には、子供用のものではおのずと限界がある。
 と同時に、弾き込むことによって音が磨かれる楽器だけに、100年200年の年月をかけて多くの人の手で丁寧に弾き込まれてきたヴァイオリンは、極めて高価だ。 そこまでの名品ではないかもしれないが、今、自分が手にしている楽器がどれほどの価格のものか、摩利には見当がつかない。 それでも気楽にプレゼントとして受け取れる代物ではないことだけはわかる。
 「ベルリンからの帰りの列車の中で、良いものがあればと思音に頼まれたの。 それで、あなたの好きそうな音色のものを探していたのだけど、やっと見つかったから。 もちろん思音からのプレゼントよ、安心して。 ほら、弓もちゃんとそれに見合うものを用意しておいたわ」
 ヴァイオリンが大きくなった分、左手の弦をおさえる指の位置がずれることに戸惑いながらも、圧倒的な音量の違いは鳥肌が立つほどの感動だった。 ことさら背筋を伸ばして音程を確かめながら弓を動かすと、明るく軽い中に深みのある音色が、大人の証のように摩利の耳に響いた。

 アグネスの館に通うようになって、もう一つ摩利が嬉しくて仕方ないことがあった。 それは、彼女が実にたくさんの楽譜を持っていることだ。 輸入に頼らなければならない日本の洋楽の楽譜事情がお寒いばかりなのは当然だが、フランスでもアグネスほど多彩にヴァイオリン譜をそろえている人は少ないだろう。
 初めてそのコレクションを見た時、摩利はサロンの重厚な作り付けの書棚の一角を占める膨大な楽譜に目を丸くするばかりだった。
「私の一番の道楽なのよ。 楽譜を読むのも楽しいわ。 摩利も演(や)ってみたい曲や、見てみたい楽譜があったら、遠慮なくおっしゃいね」

 6月に届いた新吾からの小包は、思音の生活にも少なからずの影響をもたらした。
 パリでどれほど選りすぐりの家庭教師をそろえても、日本の中学校の教科書を教えられるわけはない。 とりあえずは思音が教えるしかないわけだが、英国での事業展開を始めた時期だったこともあって、同じ家に住みながら定期的に摩利の勉強をみることもままならなかった。 約束はするのだが、なかなかその通りに時間が作れない。 毎回のように約束が反故になっても仕事の都合だからと、別段、摩利は気にする風でもなく自習している。 かえって、それが思音には後ろめたい。
 この先も自分は暇にはならないだろうと、思音は日本から家庭教師を呼び寄せることも考えた。 けれども、摩利がいまひとつ乗り気にならず話は立ち消えになっている。
 ただ、その頃から摩利は思音の書棚にある古典文学を読み始めた。 ―― 持堂院に行ってからも、ずっと日本で過ごしていた新吾より古文の成績がよかったのは、この時の濫読のせいかもしれない。

オーストリア略地図
(ただし、国境関係は1990年代のもの)

 「ようこそ! 待っていたのよ、旅行は楽しかった? イタリアは暑かったでしょう?」
馬車から降りた思音と摩利の頬に、出迎えたウルリーケが接吻をしながらはしゃぐ。
「まあ、摩利ったら3ヶ月のうちにずいぶん背が伸びたのね! 今度の姉妹ごっこは妹じゃなくて双子だわ」
 「ウルリーケ! あなた、懲りもしないで、またやるつもり? 冗談だけにしておいてちょうだいよ」
背後からのアグネスの声に、ウルリーケが首をすくめ舌を出す。
 「ご招待ありがとう、アグネス。遠慮なく寄せてもらいましたよ。湖からの風が涼しくてよい所ですね。 ウルリーケ、そういうあなたも3ヶ月のうちに見違えるほど雰囲気が大人っぽくなりましたね」
ふたりの娘の頬に接吻を返しながら、思音が招待の礼を述べた。 いつもながら、そつなくさり気なく社交上手だなと感心しながら、摩利が父を眺めている。

 8月半ば、バカンスの終わりの季節に、アグネスは、思音と摩利をヴェルター湖北岸の町ペルチャッハにある別荘に招待した。 ヴェルター湖はオーストリアの南端、スロヴェニアとの国境間近に位置するが、このあたりの湖沼地帯は昔から避暑地として知られ、ウィーンからの文化人やドイツからの観光客も多数訪れる。

 祖母から結婚祝いに贈られた私の別荘ですから、気兼ねなくお過ごしください。 この別荘はマレーネもことのほか気に入っていて、かつては毎年のように夏を過ごしていたそうです。
 ケルンテンの夏の音楽祭は室内楽からバレエまで演目が豊富です。 少し足を伸ばせば、15世紀頃の城址やフレスコ画の美しい教会など観光にも事欠かず、夏の間ずっといても退屈しません。
 摩利、ここにいる間にブラームスのヴァイオリンソナタの1番をやりましょう。 この曲は、ブラームスが夏のペルチャッハで作曲したのよ。 少し大変かもしれないけれど、ヴァイオリンもフルサイズになったことだから“大人の曲”をやってみましょう。

 愛息子を欧州に呼び寄せておきながら、日頃は仕事に追われてまとまった時間が取れない思音は、「夏は摩利くんの専属になりますから、絶交しないで下さいね」と折に触れて、冗談を繰り返していた。 バカンスのシーズンでもパリにいると、思音ばかりか摩利まで断りにくい招待が多く、落ち着いて過ごせそうにない。 アグネスからの招待を受けて、夏の前半は父子ふたりで欧州各地を旅行し、後半はアグネスの別荘で摩利の勉強に専念することにした。

 「私もすぐに戻るから、先におふたりにお茶を差し上げてね」
アグネスが花バサミを手に、ウルリーケにことづけた。
 「あれがヴェルター湖? 本当に庭先が湖になっている」
「そうよ、ここはどのお部屋からも湖が眺められるの。 静かだし、涼しいというより夜は寒いくらいよ。 ふたりの荷物はちゃんと届いているわ。摩利のお勉強道具なのですってね」
「うん! とうさまにいろいろと教えてもらうんだ!」
「はっは、私に摩利くんの家庭教師がつとまるのも、今のうちだけでしょうからね。 高等学校に入ったら、もう、あやしいものです」
「それと、とうさまと一緒に遠乗りに行く約束もしているんだけど、ウルリーケは馬は?」
「馬には乗らないことはないのだけれど…、それがね、ふたりに会ったばかりなのだけれど…。 私は明日、ベルリンに帰らなければならないのよ。 おじいさまの大事なお客様が英国からお見えなるから」
窓の外では湖に夕日がかかっている。
「一昨日(おととい)まで、おばあさまや私の両親も、ペルチャッハに来ていたのよ。 それが、急にお客様が来ることになったからって、おじいさまに呼び戻されて…。 摩利に会えるって、おばあさまは、それは楽しみにしていらしたのに。
 私まで一緒に帰ったら、アグネスがひとりになってしまうから思音と摩利が来るのを待つことにしたの。 そうね、できれば、私も摩利と遠乗りに行きたかったけれど…、残念だわ」
残念という言葉と裏腹に、ウルリーケの表情は弾む心を抑えきれない不自然さがある。

 「おとうさまも、おかあさまも、ウルリーケはこのままペルチャッハにいて良いとおっしゃっていたでしょう。 それなのに、どうして、あなたまでベルリンに戻るのかしら?」
温室で切ったばかりの薔薇を抱えたアグネスが、珍しくいたずらっぽい口調でウルリーケの不自然な話し振りを受け止めた。 開きかけた淡いピンクのつぼみが、かすかに甘い薫を漂わせている。
「おふたりの寝室にと思って、明日の朝には花が開きそうな所を持ってきましたわ。 そうそう、ウルリーケね。もう、散々聞かされていますのよ、この子には」
「アグネスったら! 誰にも言わないでって言ったのに」
「でも、思音や摩利は別でしょう?  わかっていてよ。おばあさまのお耳にでも入ったらそれこそ大騒ぎだわ、つむじ風お嬢さん」
 色白のウルリーケが耳まで赤くなるのを、摩利が見たのはこの時が最初で最後だった。 おおっぴらに話すわけにはゆかない。が、だから、誰かに聞いて欲しくて仕方ない。
「ウルリーケが会いに行くのはイギリスのお客様じゃなくて、インドの彼なんですよ」
「ね、思音も摩利も、おばあさまたちには内緒にしておいてね。 黙っていてくれるなら、彼のこと話してあげるわ」
 ―― さっき、とうさまがウルリーケの雰囲気が大人っぽくなったって言ったのは、お世辞やでまかせではなかった。
 従姉が初めて見せた表情に、摩利は今まで自分が知らなかった新しい世界を垣間見た気がした。

(2001.3.9 up)



2、梅雨のない6月 / 4、ルディ

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