8, パリの紅葉


 思音の自宅の居間で英国からの報告書の読みあわせを終えたボーフォール公が、ワイングラスを傾けながら言った。
「伯爵の人脈のおかげで、英国の正確な情報が迅速に入るので助かりますよ。 いずれ、妹君には私からも何かお礼をしないといけませんな」
 この春から思音の妹 ― 摩利にとっては叔母にあたるわけだが ― は、駐英大使夫人として夫とともにロンドンに滞在している。 彼女は、思音とは2歳違いと年齢が近いこともあって子供の頃から仲が良く、鷹塔一族の中では珍しく思音とマレーネの結婚に当初から好意的だった。 他の親戚の手前もあってマレーネ存命中はあまり親密な交流はなかったが、欧州に来てからはこまめに連絡を取り合い、お互いに異郷での生活の心の支えになっている。  (これから約1年半先の話になるが、摩利が持堂院に入学が決まった時たまたま一時帰国していた彼女は、東京・麻布の鷹塔邸に入学祝を届けに立ち寄って、新吾とも顔を合わせることになる)

 「いくら情報が得られても、公の事業実績とボーフォール家の家名の重みがなければ、ここまですんなりと話がまとまるはずがありません。 だから、お互い様ですよ」
 空になったボーフォール公のグラスに思音がワインを継ぎ足していると、夜もふけた往来に馬車の音が近づいて来た。 階下でぱたぱたとメイドたちが立ち回る気配がしたかと思うと、居間の扉が開き摩利が飛び込んできた。
「ただいま! とうさま!」
思音が満面の笑みで抱きとめた。
「おかえり、私の摩利くん。ほんの少しのあいだに、また背が伸びたような気がしますよ。 ペルチャッハではゆっくりすごせましたか?」
「列車が遅れて、こんな時間になってしまって」
「アグネス、お世話になりましたね。今日もペルチャッハから遠路、摩利を連れての旅でお疲れでしょう。 おかげで私は心置きなく仕事に専念できましたよ」
「いいえ、私も摩利のおかげで淋しい思いをせずにすみましたわ。 ボーフォール公、8月には電報をありがとうございました。助かりましたわ」
「いやいや、S男爵家のワインの出来は私にとっては最大の関心事の一つですから、当然ですよ」
公は冗談とも本気とも付かない笑顔だが、アグネスは慣れた調子で受け流す。

 「アグネスもいかがですか? 来年から英国に輸出する予定のものです」
摩利と隣り合ってソファにかけたアグネスに、思音が足が紺色のヴェネチア製のワイングラスを渡した。 彼女は色と香を確かめてから、ゆっくり口に含む。 特に感想を言うわけでもないが充分に及第点をつけたようだ。
 「男爵の話では、焼き討ち騒動で何人か怪我人は出たけれど命に別状はなく、ブドウのでき自体は良いそうですわ。 例年より少し遅れたけれど、ワインの仕込みも順調だとか…」
「ほう、それはなによりだ。 ボーフォール家のワイナリーも、われわれの取引先も問題なくて、バカンスを返上して戻ったのに拍子抜けでしたよ。 まあ、その分、英国での仕事が進みましたけれどね」
 摩利も一人前の手つきでワイングラスを持って周囲の話に耳を傾けているが、長旅の疲れで目が眠そうだ。 席を外す口実になろうかと、思音が告げた。
「そう言えば、摩利くん、新吾くんから荷物が2つも届いていますよ」
「新吾から? なんだろう? 見に行っていい?」
好奇心を抑え兼ねて摩利がグラスをテーブルに置くと、それを潮時とアグネスが立ち上がった。
「もう10時過ぎていますのね。私も失礼しますわ」
「館まで送りましょう」
2週間ぶりの帰宅だが、夜遅くに使用人が待つだけの館に戻るアグネスのわびしさを推し量ってか、ボーフォール公が肘掛け椅子から立ち上がって手を差し伸べる。
「私が送る分には、社交界のうるさがたも何も言わない」
イタズラっぽく片目をつぶると、彼女も妙な ― 摩利にはそう見えた ― 含み笑いで答えた。 見れば思音も無言で、けれど言外の会話を熟知した様子で笑っている。
「摩利、2週間もおつきあいありがとう。楽しかったわ。 今度のレッスンは来週ね。待っていてよ」
「うん、ちゃんとアグネスが教えてくれたとおり弾けるように練習しておくね!」
―― ペルチャッハに行く前に比べて、摩利のアグネスに対する口調がずいぶん砕けたな。
ボーフォール公がそんなことを考えている目の前で、「おやすみなさい」と摩利が背伸びをして抱きつかんばかりに、ドイツ人にしては小柄なアグネスの頬に接吻した。
―― 接吻する方もされる方もずいぶんなれた様子だが…。


 その夜、思音の寝台にもぐりこんだ摩利は、どんなに眠くてもこれだけはと意気込んで思音に話し始めた。
「とうさま、僕のドイツ名のコンラートは、ドイツ民族が西フランク王国から独立した時の初代王様の名前だって言っていたでしょう?  10世紀のコンラート1世」
「そうですよ」
 3歳で母を亡くして以来、摩利はひとり寝がすっかり習慣になっていた。 が、5月のメーリンク邸滞在中に、祖母の棘のある繰言(くりごと)に消沈した思音を慰めるつもりでその寝台にもぐりこんで以来、取り留めのない会話をしながら寝入る心地よさを知ったようで、今でも時折、思音の寝台にもぐりこんではそのまま寝ついている。
「でも、それだけでなくてシュタウフェン王家の初代の王様もコンラートと言うのですってね。コンラート3世!」
「そうです。アグネスに聞いたのですか?  メーリンク家がシュタウフェン王家のながれを汲むことも?」
「うん、アグネスは歴史も好きなんですって。 それでね、とうさま、コンラート3世の父上は神聖ローマ皇帝の姫君と結婚してシュタウフェン家の基礎を固めたのだけど、そのお姫様の名前がアグネスなんだ」
 あれもこれもともどかしげに話しているうちに長旅の疲れで寝入った愛息子の寝息を聞きながら、思音は壁にかけた若いままの亡妻の肖像に話し掛ける。
「マレーネ、摩利は親に縁は薄いかもしれませんが、あなたのおかげでいろいろな人に愛されていますよ。 今になって一つの寝台で摩利の寝顔を眺められるとは、思いもよらなかった幸せです。 これもあなたのおかげですね。 ほんの一時のことでしょうが、それだけにうれしいですよ」



 今回、新吾から届いた小包は1学期の授業の内容をまとめた帳面だった。
 摩利は日本の蒸し暑い夏を思い出した。 蚊取り線香が細い煙を上げる横で、とんぼ柄の浴衣に兵児帯を背中で結び、机に向かって汗をかきながらせっせと清書する新吾が、こんなにもはっきり見える。
―― どんなに退屈な作業だって、新吾は自分で決めたことは絶対にやりぬくんだ。 きっと「摩利にわかるように書かなくては」なんて独り言を繰り返しながら、夏休み前半を費やしたに違いない。
 帳面を詰め込んだ箱と一緒に届いたもう一つの細長い包みを開けると、手紙と一緒に竹刀が2本入っていた。
 「摩利も背が伸びて今までの竹刀が短くなったと思います。 印南のおじいさまのところに出入りする職人さんに教えてもらって、数馬叔父上と一緒に作った大人用の竹刀です。 摩利が稽古をつけてもらえるように、おじさまの分も送ります」
新吾は、身長の伸び具合から剣道の上達ぶりまで、日本にいる自分とフランスにいる俺が同じでなければ気がすまないのかと、摩利は唖然とする。 しかし、新吾の思い込みを摩利は押し付けがましいと感じない。 くすぐったいような嬉しさがこみ上げる。 それは、兄弟のような感情とか幼馴染のなつかしさではなく、ただ新吾から自分に寄せられた想いだからというのが本当の、そして唯一の理由だ。 ―― 摩利が自分自身の感情に起因する本当の理由に気づくのは、まだ数年先のことだが。

 新吾手製の竹刀を正眼に構えると、今まで使っていた竹刀より確かに長い。 絞るように握りこむ柄(つか)は、真新しい皮の匂いがする。 素手で握った時の皮の感触が好きなせいか、摩利はボーフォール公にどれだけ勧められてもフェンシングに転向する気にはならない。
 「ほう、それが新吾くんの手製の竹刀ですか?」
スーツケースをさげた思音が、摩利の部屋を覗き込んで声をかけた。
「ええ、とうさまの分もありますよ」
手渡された竹刀の丁寧な作りに感心しながら、思音が楽しそうに笑う。
「はっは、帰ってきたら久しぶりに摩利くんと打ち合いますか。 新吾くんのおかげで、楽しみができました」
「とうさまも喜んでいたと、手紙を書きますよ。きっと新吾も喜びます」
摩利の言葉にうなずくと、思音は床に置いたスーツケースを取り上げた。 1907年の秋は、英国事務所の開設を間近に控えて、思音がもっとも英国に出張が多い時期だった。
「では、しばらく留守にしますから後を頼みますね、私の摩利くん」
「もう、お出かけですか? 玄関まで送ります。 ロンドンで叔母様に会ったら、僕からもよろしく伝えてくださいね」
 街路樹が葉を落とす中、思音の馬車が角を曲がるまで見送りながら、摩利は 「パリの紅葉は何だか単調だ。もみじの燃え立つような紅も、いちょうの輝くような黄金色もない。 ただ、くすんでいるだけだ」と思う。
 でも、今日は空が青い。この空は新吾の所にも続いている。 “紅葉は日本の方がはるかにきれいです”、こんな文面なら、新吾も文句言わないだろう。 今晩、帳面と竹刀が届いたと手紙を書こう。

 思音が留守にしていても、長年仕えている執事と家政婦がすべてを心得てメイドたちに指示を出すので、摩利の日常生活に不自由はない。 そもそも日本にいた時から父はほとんど不在で、使用人に世話をされて暮らしているのだから、数日の出張など苦にもならない。 いつもと変わりなく夕食を済ませ、新吾に手紙を書く。
「摩利はおれの作った竹刀でさっそく素振りをしているそうですよ、数馬叔父上」
この手紙を読む新吾の姿が思い浮かぶ。
 新吾への手紙を封筒に入れ宛名書きをしていると扉を叩く音がした。 執事がメーリンク子爵夫人とウルリーケの急な来訪を告げた。
「おばあさま、おひさしぶりです。お変わりありませんか」
客間に現れた摩利を見るや、メーリンク夫人はソファから飛び上がらんばかりに立ち上がった。
「まあ、まあ、あれから半年も経っていないのに、また背が伸びて。 ああ、でも、目元も口元もますますマレーネに似てくるわ」
摩利にほお擦りをしながら、いつの間にか涙声になっている祖母を半ば呆れ顔でウルリーケが眺めている。
「おばあさまもお変わりなくお元気そうで、なによりです。パリへはいつ?」
「昨夜遅く着いたのよ。摩利、ところで鷹塔伯爵は?」
大げさにあたりを見回すようなしぐさとともに、メーリンク夫人が尋ねた。
「おばあさま、まだ、P侯爵の茶話会が終っていない時間よ。 思音が帰っているはずがないでしょう」
ウルリーケが言葉を飾る余地もなく口をはさむ。
「いえ、父は今日から英国に出張しています」
「英国に? 出張ですって?」
突然の祖母の険しい口調に、摩利は面食らって付け足した。
「ええ、大事な仕事で…」
「ええ、ええ、それは仕事は大事でしょうよ。 でも、だからと言って摩利をひとりにして何日も留守にするなんて、なんと言うことでしょう!」
摩利とウルリーケは、素っ頓狂にも見える祖母の激怒に顔を見合わせた。
「今年欧州に呼び寄せたばかりのひとり息子をほったらかして、外国に行ってしまうなんて!  年端も行かない子供に対してもこの仕打ちですもの、私のマレーネがあの男にどんな扱いをされていたか、推して知れると言うものです!  ああ、全くなんと言う…」
留まる所を知らずエスカレートする祖母の的外れな嘆きを何とかしようと、摩利は肩を抱いてなだめた。
「ねえ、おばあさま、もうすぐ僕は14歳になります。年端も行かない子供ではありませんよ」
「そうよ、子ども扱いは摩利に失礼だわ。 おばあさまは14の年にはおじいさまと婚約して、16歳になるのを待って結婚したって、しょっちゅう私におっしゃっているのに」
「え、ええ、それはそうだけれど…。でも、それとこれとは…」
ウルリーケのすねた物言いにメーリンク夫人が言葉を詰まらせた時、客間の扉が開きボーフォール公が入ってきた。

 「これは、メーリンク子爵夫人、こんなところでお目にかかれるとは…。 今日、P侯爵の茶話会にはメーリンク子爵もお出でになっていて、奥方様は神経痛で静養していると伺いましたが…。 もう、出歩いてよろしいのですかな」
ボーフォール公の言葉に、貴族のお姫様、奥様と今日までおっとり過ごしてきたメーリンク夫人の狼狽振りは、傍目にも気の毒なほどだった。 公は夫人の困惑など全く気づかぬそぶりで、由緒あるフランス貴族らしく老婦人の手にいとも優雅に接吻する。
「摩利、迎えが遅れてすまなかったね。馬車を玄関の前に待たせてあるが、仕度は出来ているかね?」
摩利はボーフォール公のとっさの機転を察して話を合わせ、荷物を取って来ると称して客間を出た。

 「鷹塔伯爵は、私など比べものにならないほど英国では顔が利きます。 子爵夫人もご存知のとおり、伯爵の妹君は駐英大使夫人ですからね」
摩利を待つ間、ボーフォール公はそつなく貴婦人の話し相手を務める。
「そんなわけで、今回の出張は伯爵に行ってもらわないことには話にならなくて…」
「え、ええ、もちろん存じておりますわ」
まだ動悸がおさまらないメーリンク夫人は、なんとか気持ちを落ち着けようと呼吸を整えながら答える。
「それで、せめて伯爵の留守中は、私がご子息をお預かりすることになっています。 子爵夫人のご心配もわからなくもありませんが…」
「いえ、そんな、公爵のような立派な方に面倒を見ていただけるのですから、なにも心配などありませんわ」
「さあ、おばあさま、そろそろ戻らないとおじいさまも帰っていらっしゃるわ。 おばあさまが仮病を使ってP侯爵の茶話会に欠席したなんておじいさまに知れたら、私もアグネスも大目玉よ。 ね、帰りましょう」
「仮病だなんて! ウルリーケ、なんて品ない言葉を使うのですか。 ボーフォール公に育ちを疑われますよ」
メーリンク夫人の赤面を他所に、貴婦人が気まずい思いをする言葉はフランス紳士の耳には届かないことになっている ―― そんな顔でボーフォール公は葉巻に火をつけている。

 祖母と従姉に見送られて、ほとんど空のスーツケースを持った摩利はボーフォール公の馬車に乗り込んだ。 公が「近いほうでいい」と御者に声をかけると、枯葉をがさがさ踏みながら馬車が動き始めた。
 「P侯爵の茶話会でメーリンク子爵とS男爵夫妻、つまりアグネスとその夫君に会って、子爵夫人もパリに来ていると聞いたので寄ってみたのだが、どうやら、私の勘も捨てたものではないようだ」
「ええ、助かりました。祖母に要らない心配をさせることもありませんから」
「急な外出になってしまったが、摩利は何か今夜予定でもあったかね?」
「いえ、別に」
「そうか、それなら問題はないかな」
「え?」
「いや、私のところに泊まるのに不都合はないかね?」
「そんな不都合なんて…」
「そう、それなら良い」
公が上機嫌で葉巻を取り出した。 馬車はボーフォール公邸とは違う方角に向かっている。

(2001.4.22 up)



7、フラジオレット / 9、下弦の月

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