9, 下弦の月


 ボーフォール公の馬車は椅子が高すぎて摩利の足は床に届かない。 だが、今日はつま先がしっかり床に触れている。 ここのところ毎日のように誰かしらに背が伸びたと言われるが、自分としてはピンとこない。 それだけに、こうしてわが身で確認できるととてもうれしい。
 「あ!」
「どうした?」
「ちょっと、忘れ物をして」
「とりに戻るかね?」
「いえ、大丈夫です。ヴァイオリンを持ってくるのを忘れて。寝る前に少し練習しようと思っていたのだけれど」
「アグネスは実に熱心な弟子を持っているね」
ボーフォール公の興味深いような苦いような微笑は、薄暗い馬車の中で摩利の目には触れない。

 セーヌ川の対岸、すぐそこにエッフェル塔が見えた。 馬車は川から反(そ)れてシャイヨー宮の裏手を進む。 パリの西の外れブローニュの森とセーヌ川に挟まれたこの一帯は品のよい住宅街だ。
 「そういえば」
公の口からアグネスの名前が出て、摩利はペルチャッハから戻った夜のことを思い出した。
「この前、『私が送る分には、社交界のうるさがたも何も言わない』って、アグネスに言いましたよね? 何故、公だと誰も何も言わないの?」
居合わせた4人の中で、自分だけがボーフォール公の言葉の真意を理解できなかったのがよほど悔しかったらしい。
 摩利の質問に一瞬なんの話かと戸惑ったものの、すぐにあの夜このことかと思い当たったらしく、一呼吸おいてボーフォール公があっさりと言ってのけた。
「それは、私がアグネスより摩利の方が好きだと言うことを、誰もが知っているからさ」
そして、悪びれもせず摩利の頬に接吻する。
 耳に触れた公の口ひげがくすぐったいと摩利が思ったとき、馬車が止まった。 高級住宅街の中にあって、夜目にもひときわ豪奢な造りのアパルトマンの正面だ。
「さあ、着いたようだ。おや、摩利は初めてだったかな、私のオフィスに来るのは。 この寒空に小一時間も馬車に揺られて冷え込むこともない。 どうせ、明日には自宅に戻るだろう?」
言われてみればあわてて外套なしで家を出たせいか、ボストンバッグを持つ手がすでに冷たくなっている。
「オフィスと言っても、パリ市内での夜会や晩餐会のあとはこちらに戻ることが多いから、それなりの生活はできるようにしてある。 そう、私がここに置いていないのは家内と娘くらいのものかな」
 例によって、しゃれっ気たっぷりに片目をつぶってみせる。

 ボーフォール公の言葉にたがわずオフィスの階上は、住み込みの使用人まで置いた立派な貴族の館だった。
「こんな夜遅くに客間もないな。摩利も落ち着かないだろう」
摩利が招き入れられた公の寝室は、広々として天井も高く、ソファやローテーブルのはるか彼方に幕のついた大きな寝台が置いてある。 摩利にココアとクラッカーを持ってきたメイドに、公が命じた。
「お客さんの寝室はとくに暖かくしてくれ。 ご子息を連れ出して風邪でもひかせたら、鷹塔伯爵に言い訳できないからな。 寝室の用意ができたら、後は私が案内するから皆もう休んでいい。明日の朝食はいつもどおりだ」
 こくのあるココアがたっぷり入った厚手の器を両手で持つと、指先から全身にぬくもりが広がった。 キャビネットからブランデーを出してグラスに注ぐ公を見ると、とうさまと同じ事をしていると、なんとなく摩利はおかしかった。 摩利の視線に気づいた公が、ふっと問い掛ける。
「君が練習したいと言うなら、私のヴァイオリンを出すよ。 一応、ストラディバリウスだから役不足ではなかろう」
「いえ、けっこうです」
「遠慮なら無用だが…、まあ、私としてもせっかくの機会だから君と話をしている方が楽しいが」
思わせぶりな含みのある口調で語尾をぼかしてグラスに口をつけた。
「話ですか?」
「そう、君もなかなか隅に置けない。ペルチャッハではアグネスと一度ならず夜を伴にしたそうじゃないか」
「え?」
塩味のクラッカーを摘み上げたまま摩利がきょとんとした顔をする。 ボーフォール公がしてやったりという笑顔で畳み掛ける。
「いくら従弟でも、もう、君の年にもなればそんな風にいわれても仕方ないよ、ん?」

 アグネスと摩利がふたりきりで再訪したペルチャッハは、9月に入ってめっきり冷え込むようになり、朝晩は暖房なしでは過ごせなくなった。
 「薪(たきぎ)が半分ですむわ」
夕食後、通いの使用人たちが引き上げたあとアグネスと摩利は広い居間を使うのももったいないので、アグネスの部屋でくつろいだ。 暖炉の前に置かれた毛足の長い敷物の上に座り込んで、時には寝そべって、薪をくべながら好きな本を読んだり話しをしたり、どうと言うことないが心休まる日々だった。 何不自由ない貴族の子弟でありながら、家族に恵まれない者同士が心寄せ合う一時だったのだろう。
 とにかく夜の冷え込みがきつかった。 それでも摩利が読んでいる日本の古典や、シュタウフェン王家とメーリンク家の歴史の話など中断するのが惜しいほどに話に花が咲いた。 そんな時は興が乗った勢いにまかせ、ふたりしてアグネスの寝台にもぐりこんで暖を取りながら話し込み、そのまま寝付きもした。
 摩利にとっては思音の寝台にもぐりこむのと変わらないつもりだったが、無意識に亡母の声に似ていると言われるアグネスの声を聞きながらうつらうつらするのはのが嬉しかったのかもしれない。 もし、新吾がこのことを知れば、「摩利は絶対に認めないだろうが、甘えたかったんだ」とほくそえむだろう。
 もっとも朝は、アグネスは摩利より1時間は早く目を覚まして身支度をし、階下で日課の練習を始める。 摩利は、かすかに聞こえてくる彼女のヴァイオリンの音で目を覚ますのが常だった。


 ボーフォール公はその時のことをアグネスから聞いたのだろう。 あるいは、「実は私、摩利と夜を伴にしましたの」と、アグネスが親愛の情を込めて公をからかい、公は少なからずジェラシーを掻きたてられたのかもしれない。
 それまでは、摩利には色めいた発想など露ほどにもなかったのだが、公に面と向かって指摘されれば意味がわからないわけがない。 傍からはそうも受け取られるのかと気付いて思い返すと、アグネスのやわらかい寝巻きの感触とほのかな甘い香がよみがえって、今更に赤面した。
 「彼女も弟みたいなものよと笑っていたが、興味本位に勘ぐる輩はいくらでもいるからね。 それは社交界の中ばかりじゃない。使用人の口にも充分、気をつけなさい」
最後にはボーフォール公も心配そうな口調になった。

 「公は、どうして奥様と結婚したの?」
唐突な問いに顔を見ると、摩利が生真面目な表情でまっすぐに公の目を見返した。
 ふむ、どうやら摩利もアグネスに身の上話を聞いたらしいな。 ボーフォール公も摩利の真摯な想いに応えて真面目に、しかし淡々と言葉を返す。
「私と家内は生まれる前からの婚約者同士だったよ。 ボーフォール家の次期当主と、家内の実家の長女の結婚は、私の両親の結婚と同時に決められたそうだ」
「……」
「私も思音に劣らずの仕事虫だが、家内もなかなか忙しくてね。 夜会や舞踏会などの社交や娘たちの教育もさることながら、自分の果樹園の管理など実業にも、美術品や宝飾品などの資産管理にも中々の手腕を発揮している。 むろん、私が相談に乗ることもよくあるが」
公の言葉で、摩利はボーフォール公邸の美術館のような絵画コレクションを思い浮かべた。 そういえば、公の屋敷は建物の中ばかりでなく、広大な庭にもかなりの数の彫像が置かれている。
「私はアグネスに同情などしていないよ。同情など彼女にこの上なく失礼だ。 私は彼女に多大な敬意をはらっている」
「でも、きっと淋しいよね、アグネスは」
「人間、誰だって淋しいものさ」
2杯目のブランデーを注ぐ手元に視線を落としたまま、公が言う。
「君たちの姉弟(きょうだい)ごっこが、世間では通用しないという話をしたが、ついでに世間には酒の上の話というのもあってね。 まあ、この場限りの話というわけだが…」


 S男爵の私生児騒動があっても、P公爵のとりなしと先代S男爵の謝罪、さらには双方の一族の都合などなどから、メーリンク子爵はアグネスの縁談を破談にしなかった。
 事態発覚当初、メーリンク子爵は、乳母の娘をポワティエから追うように強く要求した。 だが、S男爵は「年老いた乳母の身の回りを世話させるのに娘を追い出すわけにはゆかない。 長年仕えてくれた乳母を住み慣れた土地から追い出すのは忍びない」と懇願を繰り返した。
 結局、メーリンク子爵が譲歩して、問題の乳母の娘およびその子供は使用人の家族以上の扱いをしないことと、ワイナリーに手が離せない季節以外はパリの館で暮らすことを、厳重にS男爵に求め、S男爵もそれを了承した。
 しかしながら、現実には乳母の娘は妾妻におさまっているし、S男爵はメーリンク子爵がパリに来る時以外はほとんどポワティエを離れない。 アグネスは自分の祖父にS男爵の実態を告げることもなくパリで暮らし、大舅の前で会話の端々を取繕う夫に、話をあわせている。
 「今日のP侯爵家の茶話会でも、S男爵のいい訳じみた話し振りに彼女はよく合わせていたよ。 もっとも、P侯爵夫人に孫はまだかと聞かれて、メーリンク家の体質は子供ができにくいなどと、自分のことを棚に上げて手前勝手を並べた時には、さすがに彼女も黙ってしまったが」
「なんで?」
摩利が突然、涙声になった。
「アグネスはあんなにきれいで優しくて、いろんなこと知っていて…。 それなのに、どうして、そんなにないがしろにされているの?」
―― 彼女への侮辱を、ここまで我がことのように感じるとは、相当、心情的に通い合うものがあるらしい。 このふたりの姉弟ごっこは、このさき度が過ぎことになるかもしれない。
「そう、実に彼女は気丈で聡明な女性(ひと)だ」
内心の困惑は毛筋ほども見せず、公は冷たいまでに理知的なコメントをした。


 暖炉の薪がぱちぱちっとはぜた。小さな火の粉が飛んで宙で消える。 暖炉脇の窓に視線を移すと、エッフェル塔の向こうに下弦の月が昇ってきた。
「なかなかいい角度だと思わないかね?  ここからのエッフェル塔の眺めが気に入って、この部屋を私の寝室にしているんだ」
 摩利のココアの器が空になった。 ボーフォール公がグラスを置いて立ち上がる。
「さて、寝室に案内しようか。それとも、ここで私と一夜を伴にするかね?」
もはやこの言葉が何を意味するのか摩利も理解していることを承知の上で、ボーフォール公はさり気なく本音を織り交ぜる。

(2001.5.4 up)



(8)、パリの紅葉 / (10)、各国の冬

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