通奏低音

(2)契 約

 大革命以前のたたずまいをよく残したボーフォール公邸の客間は、そのまま庭園に出られるように 庭に面した両開きの扉の外に大理石の階段がしつらえてある。屋外で園遊会が頻繁に催された頃の 名残だろう。
 摩利がささめに帰国するように告げた翌日、高い天井からまばゆく磨かれたシャンデリアが 見下ろすこの部屋に思音と摩利が招かれていた。
 摩利が座った椅子からは、大理石の露台(バルコニー)の向こうに人の背丈ほどに整えられた 薔薇の生け垣が見渡せた。これはボーフォール公の自慢のひとつで、6月ともなると白い大輪の 花をたわわに競わせ客間にまでその薫が広がるのだが、3月では紅色の新芽も遠目には まだ定かではない。
 執事が無言で紅茶を注いで無言のまま部屋を出て行く。 壁に並ぶ歴代の紳士や淑女の肖像が、家紋の刻まれた重厚な額縁の 中から時代がかったかつらや衣裳を着けてこの光景を眺めている。

 「ほう、マイセンですか」
華奢な作りながら装飾を押さえて硬質な感じがする紅茶茶碗を手に、思音が鷹揚に笑う。 70の坂を越えて銀髪が輝きを増してはいるが背筋の張りは青年の頃と変わらない。
「そう、どこの器に入れても仏蘭西のお茶の香りは楽しめますからな。」
ボーフォール家の為に特別にブレンドさせているローズティーの色と香を満足げに確かめながら、 ボーフォール公爵も笑顔で応える。 公は思音より更に年長のはずだが口髭の豊かさもそのままにセクシーという形容が今でも似合う。

「はっは、昨夜(ゆうべ)はなんだか遺言状を作っている気分でしたよ。」
思音が、摩利に運び込ませた鞄から革の分厚い書類挟みを4つ取り出して卓上に重ねた。 思音も摩利も秘書にさえ行き先を偽って外出したので、摩利が秘書に代わって鞄持ちを しなければならなかったのだ。
「伯爵、縁起でもない冗談をおっしゃらないで下さい。」
公の女婿・ラウールがいつになく強い口調で言った。情勢の緊迫がそうさせたのか、それとも 虫の知らせでも感じたのか。
「大丈夫ですよ。近頃、父は絶対、孫の嫁さんの顔を見ると言い張っているんですよ。全く おれのほうが先にマレーネかあさまに会いに行きそうだ。」
どこかくすぐったそうに話す摩利に、思音が葉巻をくゆらしながらいつもの温厚な笑みを向ける。

 ボーフォール公爵、公の長女の婿でビジネスの後継者でもあるラウール ―― 貴族にはありがちな 話だが、ボーフォール家の親戚筋の家から養子に入ったと聞いている ――、鷹塔伯爵、そして摩利の 4人は、やがて仏蘭西と独逸が再び戦火を交える可能性がきわめて高いこと、今度は日本の軍事情勢も 予断を許さないことを見越して内密な相談を進めてきた。今日はその最終的な整理をすることに していた。

 第一次世界大戦の時は、仏蘭西と日本の関係は良好だったし、 独逸とはさほど緊密な業務関係もできていなかった。
 独逸の血を引く摩利もまだ留学中の学生に過ぎなかった。 (それでも、摩利は中立国に避難していた にもかかわらず国際紛争の舞台裏のもめごとに巻き込まれて、新吾ともども黒板の落書きでも あるまいに“消され”かけた事もあった。それもかれこれ20年も昔の話になる。)
 だから、大金をばらまいて思音とボーフォール公は各国諸機関と友好関係を築き、 国際的な緊迫状態を全て自分たちのビジネスチャンスに変えて未曾有の利益を上げた。

 今回は、もっと情勢が複雑だ。
 今までのように、思音やボーフォール公が緊密な関係を続けていたら身に覚えの無いスパイ容疑を かけられかねない。ボーフォール公爵家や鷹塔伯爵家の莫大な財産を差し押さえんがために 冤罪(えんざい)のでっち上げさえされかねない。そうなったら、 メーリンク家も無事では済むまい。
 この状況を冷徹な目で見据えて、4人が筋書きの申し合わせをしてゆく。

 まず、ボーフォール公と鷹塔伯の共同事業を打ち切る。会社はボーフォール家の仏蘭西、 メーリンク家の独逸、鷹塔家の日本の3つに分割する。仏蘭西にある鷹塔伯爵名義の資産を ボーフォール家が買い取ることが基本的な方針になっている。
 日本の戦国時代を例に出すまでもなく、一族を敵味方に振り分ければ戦の行方に関わらず 一族根絶やしは避けられる。思音たちが仏蘭西から持ち出せない資産はボーフォール一族が うまく分散して温存するだろう。母国・仏蘭西から離れられない鷹塔家の使用人たちが路頭に 迷わないように世話も引き受けてもらえる。
 相談が進むに連れて、このような情勢下にあっても守りにまわることを善しとせず、 この機に乗じて三ヵ所で事業を続け利益を上げようとする思音や公の老練なしたたかさに、 後継者たちは舌を巻いた。

 「ひとたび戦争が始れば現金は信用できませんからね。敗戦国の紙幣など紙屑になりますよ。 戦えば必ずどちらかが敗者になるのです。」
「ええ、とうさま、メーリンクの資産もできるだけ貴金属か宝石、絵画に変えて、 瑞西(スイス)に運び出しておきますよ。まだ、少しは時間もあるでしょう。」
「全く杞憂に終わってくれれば良いのですが。」
思音が珍しくため息をついた。
「では、公、ラウールくん、これがボーフォール家に譲渡する鷹塔家の資産の一覧です。 こちらは、会社の分割に関する書類。それぞれ表向きのものとわれわれだけが存在を 知っているものと2組ずつ作ってあります。」
「こちらも2組用意しましたよ。お譲りいただく資産の対価として、私達から差し上げる 瑞西の別荘の関係書類、そして会社分割の覚え書きです。」
4人がそれぞれにサインをした分厚い書類が取り交わされた。

 この時期、まだ巴里の夕暮れは早い。書類が片付けられるとシャンデリアの光の下で、 グラスを手に語らいが始った。なにを話したわけでもないのに時間が経つのが早い夜だった。 ボーフォール公はクリスタルグラスの重みを掌で確かめているうちに夜半が過ぎてしまった ような気がした。
 別れ際、長年の習慣で公と接吻を交わす摩利だったが、名残を惜しむ公の眼差しと 肩に置かれた手の熱を今でも覚えている。
(1999.12.9 up)

(1)1936年 巴里 / (3)メーリンクの館

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