10, 各国の冬


 ソファにかけたまま摩利は挑むような目でボーフォール公を見上げた。
「父にはなんと言えばよいのですか?」
ほう、牽制ときたか。いいねえ、君の鼻っ柱の強さは。 ボーフォール公はふきだしたいのをこらえて仏頂面を作り、肩をすくめて見せる。
「なんとでも、君の好きなように」
「そうですね。公と僕の問題ですから、父は無関係と言えば無関係だし」
実に素敵だよ、摩利。自分をヒヨコと知った上で、精一杯、胸を張り羽を広げるとは良い度胸だ。
「でも、今日は一人で考え事をしたいので…」
突然、何を思い出したのか目を伏せ沈んだ口調になった。
「あ、これ、言い逃れではありません」
あわてて語調を強めた摩利に、わかっているさと公がうなずく。
「次回は違う返事を待っているよ」

 一人になると、ボーフォール公は窓際の肘掛け椅子で再びグラスを手にした。 下弦の月を映すグラスの中で琥珀色のコニャックをゆっくり回す。 2回、3回、アルコールが膜のような跡を引いて、グラスの中をさまよう。 そのうち、掌(たなごころ)の熱が芳醇な香を立ち上げた。
――どうやら、摩利はアグネスのことが気になっているようだ。 私のオフィスに泊まって、彼女のことを考えながら一晩過ごすのか。
 妙な息苦しさだった。蝶ネクタイを取りテーブルの上に投げ出した。 喉もとのボタンを一つ二つはずす。首筋に触れた指が汗で濡れた。
―― 「摩利と夜を伴にした」というアグネスの冗談が耳にこびりついて離れないとはね。 そう、実に軽い冗談だ。冗談でなければ、とても口に出来ることではない。 ありえないことだ。…なにをそんなにむきになる?
 人目がないのを幸いとふふっと自嘲の声をあげた。


 短いパリの秋はそのまま冬の入口になっている。
 ただでさえ昼間が短くなる時期なのに、曇りがちの毎日に、摩利は空を見ては太陽を探した。
 風の子新吾は、この冬も彼方に真っ白な富士山が見える広っぱで枯草を踏んで走り、東京の乾いた風に乗せて凧を揚げるだろうか。
 竹ひごを削って四角い枠を作り、和紙を張る。 バランスをとりながら重心を決めて、枠から張った凧糸を一つに結び合わせる。
 「裏にも糸を張って凧をそらせないと紙が破けますよ、坊ちゃん方」 
 新吾の家のじいやさんに、和凧の作り方を教えてもらったな。 そう、手ぬぐいをえりまき代わりに首に巻きつけて、おれたちのおぼつかない手を心配そうに見守ってくれたよ。 師走の声を聞くころから作り始めて、冬休みに間に合わせるんだ。
 出来上がってからの思いつきで、「来年は辰年だから凧にも“龍”の字を書く」と太筆を持ち出した新吾が、墨をつけすぎてせっかくの凧に穴をあけたこともあったっけ。 おれが10歳になったばかりの冬だったよな。
 手も顔も墨だらけにしてべそかきをこらえていた新吾を思い出すと、自然と摩利の口元に微笑が浮かぶ。 そのあと、母・しず手製のお汁粉になだめられた新吾の姿だって忘れてはいない。
 しずのお汁粉は、関東風で少し焦げ目がつくくらいに焼いた角餅が香ばしい。 茶の間の火鉢に網をのせて餅を焼くのは、新吾と摩利だ。 「もういいかな?」「まだだろう」「こげるぞ」と、ふたりで額を寄せ合って覗き込み、焼け具合を確かめては裏返す。 小さな手に持った長い箸に、ふくれてきた餅がからまって取りにくい。 気持ちだけは一人前のお神酒徳利の冬の恒例行事を眺めるのは、隼人としずの楽しみでもあった。



 9月から毎月続いた思音のロンドン出張も、3回目の11月には一段落着いた。 年が明ければまた出かけなければならないが、どうやらクリスマスと新年は摩利とゆっくり過ごせそうだ。
 休暇の目処(めど)がたったことに内心ほっとしながら、思音は10日ぶりに執務室の扉を開く。 出張明けの決まりごとのように、書類の山が待っている。 「さて、片付けますか」と自分に言い聞かせながら革張りの椅子にかけると、9月の出張から戻った時のことを思い出した。
 「とうさまの留守中に、ボーフォール公のオフィスに泊まりに行ったんですよ。 エッフェル塔が良く見えるところですね」
久しぶりに息子の顔を見ながらの食事時、さらっと何気ない報告だったので、思音もその時は大して気にとめなかった。
「そう、あそこは実に眺め良いですね。 明日、公に会ったら摩利くんがお世話になったお礼を言っておきましょう」
 けれども、それから数日のうちにアグネスや自分の執事など四方八方から、あの夜、摩利とボーフォール公が、メーリンク子爵夫人という観客を迎えて即興芝居を打たざるを得なかった実情を知った。 そうなれば、思音とて“年端も行かない”息子に甘える父親として罪悪感を覚えずにはいられない。

 結局、10月から思音が留守にする時には、摩利はアグネスの館に泊り込むことになった。 メーリンク子爵夫人がアグネスに、“あてにならない父親”に代わってマレーネの一人息子の面倒をしっかり見るようにと申し渡したからだ。
 それを聞いたボーフォール公は、思音のビジネスパートナーとして、喜んで郊外の本宅に摩利を預かると申し出た。 だが、摩利は「ヴァイオリンのレッスンを見てもらえるから」と、アグネスの館で過ごすことを選択した。
―― 全く、私への言い訳にまで気を遣うとは、すてきなおませさんだよ、摩利。 本当はアグネスを一人にしておくのが心配なんだろう?  ……、いや、君自身がアグネスの側にいたいのが本音か?
 摩利の返事を聞いたとき、微笑に少なからず皮肉な翳が混じる自分の大人気なさに、ボーフォール公は我にもなく照れて、一人ため息をついた。


 妹が住むロンドンを訪れるとは言え、思音は出張先では常に仕事に追われているし、大使夫人である妹も公的な勤めがあって、電話で声を聞く時間さえとれないこともある。 しかし、11月には彼女がせめてお茶でもと、思音の滞在先のホテルに現われた。 今月末に14回目の誕生日を迎える摩利へのお祝いにとターナーの風景画を届けるためだった。
 「冬になって、英国の人が室内に風景画を置くのが良くわかりました。 毎日がどんよりとした空に、見通しも何もない霧ですもの」
アフタヌーンティーの時間帯、格式ある英国のホテルのラウンジは、洋画の世界から抜け出したような紳士淑女がさざめいていた。 上質のスーツやドレスを自然に着こなした鷹塔伯爵兄妹は、一見では東洋人だと気付かれないくらいその風景になじんでいる。
「寒くなるとロンドン名物の霧がますます濃くなるから、こちらの冬はパリの冬よりまだ暗いと思いますわ」
「確かに、たまに来る旅行者にとっては異国情緒ですが、毎日の生活となれば憂鬱でしょうね」
「霧はひどくないかもしれないけれど、摩利くんだって街中での暮らしばかりでは飽きもくるでしょう。 だからと言って、お兄様も、忙しいからそうそう郊外へも連れてゆく時間がないのもわかりますし。 せめて田園風景の一つも、摩利くんのお部屋に置いて下さいな」

 12月になるといよいよ日照時間は短くなるが、シャンゼリゼをはじめパリの大通りはクリスマスの飾りつけが華やかさを競う。 しかも、先週はウルリーケの婚約が伝えられた。
 「よくまあ、あのつむじ風お嬢さんが、おじいさまの決めた縁談を承知したものだこと。 私の結婚に一番反対したのは、ウルリーケでしたのよ。 きっと、今回もひと悶着あったと思いますわ」
アグネスが驚嘆のため息とともに知らせてきた。 摩利にはこの婚約が整うまでの紆余曲折など見当もつかない。 だが、まぎれもない従姉の祝い事は、華やいだ贈答品を選ぶ季節を格別のものにした。 思音に連れられて摩利は賑わう街中で、ドイツの祖父母や英国の叔母のための季節の贈り物選びに、ウルリーケへの祝いの品定めにと、心弾む困惑を楽しんだ。

 ウルリーケの婚約者はオットー・フォン・カウアー、カウアー男爵の嗣子だ。 姉の結婚同様、祖父の鶴の一声に両親は二つ返事で承諾するしかない。
 もちろん、メーリンク子爵にしても、かわいい孫娘たちの幸せを心底願っていないはずがない。 不測の事情から、自分には何の落ち度もないのに、異国でひとり心労を重ねているアグネスのことはいつも気にかかっている。
 だからこそ、ウルリーケは自分たちの手の届くところに置こうと、近い親戚に縁付けた。 資産状況も、相手の人柄も、親兄弟の仲もすべて手に取るように知れる間柄だ。 ―― オットー本人がウルリーケより12歳も年長だということは、メーリンク子爵にとってはごく瑣末なマイナス要因だった。
 17歳になってすぐに祖父からとんでもないプレゼントを贈られて、ウルリーケは驚愕し、憤慨した。 しかしながら、今までのところはアグネスが懸念したような悶着はなく、表向きは平穏のうちに話は進んでいる。

 私にはルディがいるわ! ルディの家は王族とも言える由緒正しい家柄で、インド国内で3本の指に入る大富豪だとスペンサー伯爵は言っていた。 数年前には英国政府からも男爵の爵位を贈られた一族だから、これからも間違えなく繁栄すると。 それに、ルディ自身だってインド政府高官への道が約束されている。
 そう、私との結婚だって充分につりあう話よ。 日本の伯爵家に嫁いだマレーネ姫とどう違うというの?  強いて違うところといえば、マレーネ姫には婚約者はいなかったけれど、私には婚約者がいることくらいだわ。 でも、マレーネ姫は春風だったけれど、私はつむじ風ですもの。そんなの気にしないわ。
 スペンサー伯爵は、次回は2月にはベルリンに来ると言っていた…。 今度こそ、ルディも一緒に来るはずよ。その時に、彼にちゃんと話をしなければ。 急な話だから驚くかもしれないけれど、急がなければならない事情をわかってくれるわ。
 もし、彼がその気がないのことがわかれば、それはそれで諦めがつくというもの。 とにかく、このまま、うやむやになんか絶対にするものですか!

 自分の婚約に全く納得していないウルリーケだが、両親に文句を言っても埒(らち)があかないことも熟知している。 かえって話がこじれて、説得されるに決まっている。
 オットーには悪いけれど、今はおとなしく婚約しておくことだわ。 表立って事を荒立てないのが得策、いいえ、それが、唯一の方法よ。 とにかく2月までは時間を稼がなくては。 ルディと話をするまでは、私の本当の気持ちを誰にも ―― アグネスにだって ―― 知られてはいけないわ。

 ウルリーケが人知れず異国への駆け落ちも辞さない覚悟を決めた12月初旬、常夏の国インドは政情激変の時だった。
 そもそもインド国民会議は、「インド人による議会の設置」を英国側に要求する人々の自主的な集会から始まった。 議員も選挙で選ばれたわけではなく、自主会合の参加者がそのまま議会構成員に横滑りしたので、年を追うごとに国民会議の規模は拡大した。
 最大の課題である「英国に対してインド人の利益を守る」こと一つをとっても、様々な主張が錯綜した。
 地域差、多宗教、鉄のようなカースト階級差、インド国民会議は、あらゆる次元で相互理解と融和を困難にする要素を結晶した派閥の寄り集まりでもあった。
 相容れない主張をもつ派閥の摩擦エネルギーは、時間と伴に蓄積されていった。 そして、臨界に達した1907年12月、本会議場では椅子や机を投げあう大騒乱となった。
 会議場内に警察官が動員される異常事態の後、インド国民会議は分裂した。

 と、世情にはインド国民会議分裂と伝えられているが、実態は親英国派や穏健派による反英国過激派の締め出しだった。
 英国本国の男爵でもあるルディの伯父は、分裂後のインド国民会議においても、有力議員であることには変わりはない。
 問題は合法的な政治活動の場を失った過激派だった。 公的な活動の場を追われれば、彼らは地下活動に走るしかない。 非合法集団と烙印された人々は1908年になると、ますます過激に、流血をためらわず、世間の耳目を集める手段に訴えるようになり、活動範囲もインド国内に留まらなくなっていった。
 インドの政治情勢などアグネスや摩利の耳には届かない話だ。 が、やがてはウルリーケの身の上に関わる事件につながってゆく。

(2001.5.12 up)



(9)下弦の月 / (11)パリの雪雲

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