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5.退廃芸術とは

狂気、厚顔無恥、無能の産物をご覧ください。  展示品は例外なくショッキングで、むかつきます。
(退廃美術展の開幕の言葉)

かれらの目の欠陥は、機能的なものか、遺伝的なものかのどちらかである。
 前者であれば、かれらの不幸に大いに同情すべきだが、後者であるとすると、
  少なくともこうしたおぞましい視覚障害がさらに遺伝していくことは阻止せねばならない。・・・
   しかし国民をペテンにかけているのかもしれない。
    そうであるとするなら、そのような行為は、刑法の扱う領域に属すものなのだ。
アドルフ・ヒトラー、大ドイツ展の開幕の言葉)

【退廃芸術とは】 /  【風呂場のシーン】 /  【退廃芸術展】



【退廃芸術とは】
 シュレーカーの作品と生涯を語るとき、「退廃芸術」というレッテルを抜きにはできない。

 ここで「退廃芸術」とは、1930年代ドイツにおいて、ナチが排斥した美術、音楽、文学、演劇、映画などを指す。
 「ドイツ感情を傷つけ、あるいは自然形態を破壊ないしは混乱させる。 つまり仕上げの工芸的・芸術的な能力欠如を明らかに示すもの」という理由で、没収、上演禁止、焚書などの処分を受けた。 作者は厳しく非難され公職を追放された。 最悪の場合は強制収容所送りである。

 「退廃」あるいは「頽廃」(Entartung)というのは、もともと生物学上の用語で、退化、変質によりその種類に属さないものを指す。
 これが19世紀末ころから、社会の規範から逸脱した行動をとる人は、人種的に劣り、排斥しあるいは絶滅させるべきだという主張に転用された。

 ダーウィンの「種の起源」が出版された1871年に成立したドイツ帝国では、ことさらアーリア人の優秀さを強調するあまり、他の民族は生物学的も劣る、と考える風潮があった。
 他方、イタリアの法医学者ロンブローゾは「犯罪者は生まれつき、一定の生理的な異常があり、必然的に罪を犯す」と主張。 したがって社会から隔離し、子孫を残さないようにする必要がある、ということになる。こうなるとナチ時代の刑事法に近い。
 ベルクの「ヴォツェック」における、医師のヴォツェックに対する態度には、これと通じるものが感じられる。 「意志によって自分の行為を制御できない者は、劣悪な人間である」 という考えが背後にある。当時ドイツでは法哲学上の大論争となっていたテーマである。

 ドイツではマックス・ノルダウという人が「退廃者は必ずしも犯罪者、娼婦、無政府主義者、狂人とは限らず、芸術家であることも少なくない」(1892年)と主張し、ヒトラーの「わが闘争」に継承されていく。 ちなみに、ノルダウ自身はユダヤ人であった。
 本来、人権を守るべき法律学から、このような国家主義的な主張が派生したことは、忘れてはならない。 多くの法哲学者や法律家たちが、ナチ思想に共鳴し、反体制派の弾圧に率先して協力した。
 映画「ニュルンベルク裁判」では、裁判官たちの果たした役割が、有名な戦犯裁判において暴かれていくドラマが描かれている。

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【風呂場のシーン】
 1929年6月8日、ベルリン・クロールオペラにおける、ヒンデミット歌劇「今日のニュース」初演で、ベルリン芸術祭が幕を開けた。
 客席にはヒトラーの姿もあった。ヒトラーは風呂場のシーンに激怒。 神聖な芸術の舞台に、女の裸が出てくることに、ヒトラーは耐えられなかった。 ちなみにヒトラーは、性的には潔癖であったと伝えられている。 このようにして、ヒトラーの価値基準に合わない芸術は、全て排斥されることになった。

 したがって「退廃」とレッテルを貼られた芸術家は、ユダヤ人とは限らない。 「退廃美術展」で展示された芸術家113人のうち、ユダヤ人はわずか7人と推定されている。
音楽家では、シュレーカー、ウルマン、シェーンベルクなどのユダヤ人だけでなく、ヒンデミット、ワイル、ブレヒト、クルジェーネク(クルシェネク)など、ナチの規範にそぐわない人物は、皆「退廃」とされた。
 例えばクルジェーネクの歌劇「ジョニーは弾きまくる」では、人種的に「劣った」とされる黒人が、嫌悪すべきジャズを演奏する、という理由で、真っ先に目の敵にされた。

 これに対して、度あるごとに称揚され上演されたのはワグナーの楽劇、シュトラウス、ベートーヴェンなどであった。
 演奏家では、フルトヴェングラーがドイツ音楽の偉大さを体現する指揮者として、崇められた。 彼は、その強い立場を利用して、密かに多くのユダヤ人芸術家を救ったと言われる。 ナチが、とかく扱いにくい大指揮者の力を弱めようとして利用したのがカラヤンであった。

 ナチの「退廃」の攻撃は、ある意味では非常に単純であった。
 例えば、シュレーカーの父親の名字は"Schreker"ではなく、シュレッカー"Schrecker"であった。 "c"が入るとドイツ語のシュレッケン"Schrecken"(恐怖、驚き)に通じる。 こんなこともナチの攻撃材料となった。
 ちなみに、フルトヴェングラーも「フルフト」ヴェングラーと攻撃されたことがある("Furcht"も恐怖の意味)。

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【退廃芸術展】
 1937年7月19日から、ミュンヘンでゲッベルスの命により開催された「退廃美術展」には、カンディンスキー、クレー、ココシュカなどの作品が大量に展示された。 16000点あまりの作品がドイツ各地の美術館から強制徴収された。
 同時に開催された「大ドイツ展」(ナチ公認)には50万人、対して退廃美術展には200万人が押しかけた。
 展示会場には文字説明を多用し、鑑賞者に先入観を与え「退廃芸術」の程度の低さに憤慨するように仕向けられていた。 劣悪な照明の下で、わざと斜めに傾けて飾られた作品もあった。 自画像と画家の写真を並べ、精神を病んでいるかのように示唆する展示もあった。 また、「退廃」を強調するため、わざとらしく未成年者の入場は禁止された。
 一方、大ドイツ展に合わせ、ミュンヘンでは「トリスタンとイゾルデ」、「ばらの騎士」などが上演された。

 翌1938年5月26日からはデュッセルドルフにおいて「退廃音楽展」も開催されたが、音楽は演奏するわけにもいかず、楽譜、ポスターや舞台写真などが展示されたという。
 この音楽展において「退廃」と攻撃されたヒンデミットは亡命した。
 先に「退廃美術展」が開かれたのは、美術が展示に適しているという事情に加え、若い頃画家を志したが才能の欠如ゆえに果たせなかった、ヒトラーの屈折した感情が底で渦巻いていたと言われる。
 もっとも、美術品はみせしめに焼却された一部を除き、ゲッベルスが私物化したり外国でオークションにかけられ軍事費などに充てられたりした。

 戦後50年、ようやく「退廃芸術」の復権が始まり、最初はアメリカ合衆国、次いで東ドイツ、そして日本でも神奈川県立近代美術館が主催して「退廃芸術展」が開催された。
 音楽分野では、デッカが「頽廃音楽シリーズ」を録音、発売した。 この中にはシュレーカーの「烙印を押された人々」の日本盤も含まれる。
 同じ頃、大野和士と東京フィルも、強制収容所に消えた作曲家ウルマンのピアノ協奏曲(1995年9月)、ヒンデミットの歌劇三部作(1995年10月オペラコンチェルタンテ・シリーズ第11回)、同「室内音楽」(1995年1月、4月)などを取り上げている。

*前出参考文献から編集(文責:堀江信夫)

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